「救いに通じる悔い改め」

        コリントの信徒への手紙二 7510

                                                                             水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の7章の5節から10節です。

6節でパウロは次のように言っています。「しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。」

「慰め」という言葉が出てきます。

私たちは前回も「慰め」について学びました。4節にこうあります。「わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています」。

こうして見ると、パウロは「慰め」について深く考えるよう教えていることが分かります。

それは言い換えますと、信仰生活とは慰めを受ける生活だということです。私たちは様々な苦しみや悲しみに打ちひしがれて生活をしています。ですから、慰めこそ私たちが心から求めているものでしょう。

ある人が次のように言っています。「多くの災いに抑えつけられている人はへりくだる人である。」これは「慰め」というものを知る一つの鍵になる言葉ではないでしょうか。「へりくだる」というのは、ただ謙遜になるということではありません。神に対して謙遜になるということです。自分が神に造られた者に過ぎないことを知っているからです。そのような人は神に心から慰められることを待ち望むでしょう。そうであれば、慰めこそは信仰の中心です。

1章の4節でパウロはこう言っています。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」

神の慰めを受けた人はその慰めをもって他の人々を慰めることができます。それはちょうど、救いを受けた人がその救いを宣べ伝えるのと同じです。慰めというのは互いに慰め合うことでもあるのです。

今日の聖書の5節にこうあります。「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。」

パウロはコリントの教会のために苦しんでいました。伝道旅行の途上、ギリシアのマケドニア州に着いたとき、様々な問題が押し寄せていました。それがどういうことだったのかは明らかではありません。「外には戦い、内には恐れがあった」というのですから、おそらく容易ならない事態だったのでしょう。もしかするとパウロのしたことに何か問題があったのかもしれません。

8節にこうあります。「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。」

以前パウロはコリントの教会に手紙を送りました。それはかなり厳しい内容のものだったようです。そういう手紙を出せば、当然その結果が気になります。その反応はどうだったか、もしかすると人々の心を傷つけたのではないか、と不安になったりします。もちろん、そこに書いたことはどうしても言わなければならないことだったのでしょう。しかし、それでも、言い過ぎたと思うこともあったでしょうし、これは言わないほうがよかったと思ったこともあったでしょう。

そこでパウロはテトスをコリントの教会へ遣わしました。そのテトスが今帰って来たのです。その結果はどうだったのでしょうか。

6節から7節にこうあります。「しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。」

パウロはテトスの報告を聞いて胸を撫でおろしました。コリントの教会の人たちが、どんなにパウロを慕っていたか、どんなにパウロのために嘆き悲しんでいたか、どんなにパウロに対して熱心だったかを知ることができたのです。

このような経験はパウロの信仰をいっそう深いものにしたに違いありません。神の慰めの豊かさを深く知ることができたからです。

パウロは何を慰められたのでしょうか。

8節にこうあります。「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても」。

パウロが慰められたのは自分が後悔したことです。後悔とは、悔いること、あとで残念に思うことです。既にしてしまったこと、今さらどうにもならないことを何とかしたいと焦り、悔やむのです。慰めはそれを取り去ってくれるのです。

私たち人間のすることは皆、完全ではありません。不完全です。神はその不完全さを用いて恵みとしてくださるのです。後悔はいつでも自分のほうに向くところからやって来ます。自分のしたことを悔やむのです。それに対して慰めは、その思いを神に向けさせます。

そのとき、後悔は悔い改めに変わっていきます。

9節から10節にこうあります。「今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」

パウロはテトスが帰って来たことによって慰めを得ることができました。それはコリントの教会の人たちが救いに通じる悔い改めに至ったからです。そして、このときパウロ自身もまた悔い改めを新たにするようになったのではないでしょうか。

聖書が示す悔い改めというのは、悪いことをしていた人が考えを直したり、生活を正したりすることではありません。そうではなく、この世とか自分とか他の人とかに向いていたものを神のほうへ180度方向転換することです。回心することです。すなわち、信仰を持つことです。ですから、そこには救いがあります。命があります。

 

救いとは神のもとに帰ることです。今日、一人の姉妹がその救いを信じて洗礼を受けます。イエス・キリストの十字架による救いは、私たちの一切を神に向き直させます。私たちの心も体も皆、命の源である神のもとに帰るのです。