「釣り合いがとれるように」

          コリントの信徒への手紙二 81015節 

                    水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の8章の10節から15節です。

ここまでパウロは、コリントの教会の人たちに、エルサレムの教会の困窮している人々を支援することの大切さを語ってきました。

例えば、8章の7節にこうあります。「この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」

その際パウロは、イエス・キリストが神の御子でありながら人間となり、自分を無にして十字架の上で死なれたことを指し示しました。

9節にこうあります。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」

イエス・キリストの十字架の救いの恵みは私たちの信仰の業の基となるものです。その恵みは人を愛する力を与えてくれます。人を愛する力は私たち自身にはありません。それは神から来ます。

フィリピの信徒への手紙の2章の13節にこうあります。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である」。

私たちに人を愛する思いを起こさせるのも、それを行わせるのも神なのです。

そこでパウロはこの件に関する自分の意見をコリントの教会の人々に述べます。

今日の聖書の10節から12節にこうあります。「この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」

12節に「神に受け入れられる」とあります。これは神の祝福を受けるということです。私たちが何かを支援をする時に大切なこと、それは神に向かって行うことです。

ここで思い起こすのはルカによる福音書の21章の1節から4節です。そこにはこう書かれています。「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。『確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。』」

この話には大切なことが二つあります。

一つは、このやもめはひたすら神のことを考えて献金したということです。別の言い方をすると、このやもめは人の目を気にせずに献金したということです。彼女がレプトン銅貨二枚を献げることができたのはそのためです。

レプトン銅貨二枚は、聖書の後ろの「度量衡および通貨」という所を見ると、当時の一日の賃金の64分の1に当たることが分かります。仮に当時の一日の賃金が1万円だとすると約156円です。当時、賽銭箱の前には、ある役割を任せられていた人々が立っていました。その人たちが何をするかといいますと、誰々がこれだけの献金をしました、と周りの人々に大声で告げるのです。ですから、そのような中でレプトン銅貨二枚を献げることは大変勇気のいることでした。人の目を気にしていたらできません。それはこのやもめの心が神に集中していたことを示しています。

この話でもう一つ大切なことは、金持ちたちは有り余る中から献金したのに対して、このやもめは乏しい中から持っている生活費を全部献げたということです。それはこのやもめの献げものが自分自身だったということを示しています。彼女は自分の命を献げたのです。それに対して金持ちたちはどうだったでしょうか。彼らは持っているものの一部しか献げませんでした。そうであれば、このやもめのほうが神の祝福を受けるのは当然です。

もちろん、献金と支援とでは違うところもあると思います。しかし、つまるところ、相手は神であるということ、差し出すものは私自身であるということ、そのことに変わりはありません。

コリントの教会の人々の中には、パウロの勧めを聞いて、「エルサレムの教会の困っている人々を楽にさせるために、われわれは苦労しなければならないのか」と不平を言う人がいたのでしょう。そこでパウロはこう言います。

13節から14節にこうあります。「他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。」

  支援というのは、ある人々には楽をさせ、ある人々には苦労をかけるということではなく、「釣り合い」をとることだとパウロは言います。今はあなたがたがエルサレムの教会の困窮している人々を補い、のちには彼らがあなたがたの困窮を補うこととなる、こうして両方が自分の必要を満たされるのだというのです。

このことを説明するために、パウロは出エジプト記の16章の18節を引用します。

15節にこうあります。「『多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった』と書いてあるとおりです。」

昔、イスラエルの民はエジプトでの奴隷状態から脱出し、40年間荒れ野をさまよいました。そのようなときに最も必要とするものは食糧です。しかし、近くに食べ物を売っている店があるわけでもありませんし、食糧にする動物たちがいるわけでもありません。人々は食べ物の欠乏を訴え始めました。神は、それを御覧になり、毎日朝には天からマナというパンを降らせ、夕方にはうずらを送られて、人々が食べ物に不自由しないようにされました。しかし、それには一つの条件がありました。それは集めたものを残しておいてはならないということでした。それで人々は自分の必要に応じて、ある人は多く、ある人は少なく集めました。そのために誰も不足することがありませんでした。支援というのはそのように自分の必要を満たされることだとパウロは言うのです。

ここから知らされることは、支援の中心にいるのは人間ではなく神御自身だということです。支援の主役は神御自身であり、私たちはそのお手伝いをする者なのです。

 

この信仰に導かれて、困窮する人々への愛と思いやりの心がコリントの教会の人々の中に、また私たちの中に、豊かに生まれ育つことを、パウロは祈り願っているのです。