「奉仕」

          コリントの信徒への手紙二 915節  

                     水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の9章の1節から5節です。

この箇所は8章の話の続きです。8章の7節でパウロは「慈善の業においても豊かな者となりなさい」と言って、コリントの教会の人々に援助を勧めました。そして、その業をやり遂げるように励ましました。8章の11節にこうあります。「今それをやり遂げなさい。」このように、はじめのキリスト教会には困窮している人々を援助する働きがありました。

そのことをパウロは今日の聖書の箇所では「奉仕」という言葉で語っています。9章の1節にこうあります。「聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません。」

「奉仕」という言葉はもともと「埃を立てる」という意味があるそうです。奉仕は人々のために動き回るので埃が立つからです。また、この「奉仕」という言葉は教会の「執事」という意味に用いられます。「執事」というのは教会の中のいわばお世話係のようなものです。このように「奉仕」という言葉は昔から信仰によって他の人々を生かす働きを表しました。教会は奉仕によって信仰の証しを立ててきたのです。

パウロはこの「奉仕」という言葉と共に「誇る」という言葉を二度使っています。2節にこうあります。「わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。」また、3節にこうあります。「わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。」

パウロは誇ることが悪いことだとは考えていませんでした。人は誇りをもって生きるものだと考えていました。ただ問題は何を誇るかということです。世の人々が誇るのは何でしょうか。それは結局、自分のことではないでしょうか。それに対してパウロはコリントの教会の人々のことを誇るというのです。なぜ、コリントの教会の人々のことを誇るのでしょうか。

パウロという人は他のキリスト者の信仰生活を誇ることが好きな人でした。それは、その人の信仰生活に対して自分も何かをすることができたということもあると思いますが、それ以上に、その人のしていることに喜びを感じていたからです。

他の人の良いことを喜ぶことは難しいことです。なかなか出来ないことです。なぜなら、人間には妬みというものがあるからです。それが邪魔をして、他の人の良いことをなかなか喜ぶことができません。そうであるなら、それを誇ることはいっそう困難です。そのときパウロは、それを自分のことのように喜んだのです。

5節にこうあります。「そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。」

「贈り物」とありますが、これはもともと褒め言葉だったようです。それが発展して「祝福」という意味を持つようになりました。祝福は豊かさを伴うものなので、最後に「贈り物」という意味が出てきたのです。ですから、コリントの教会の人々にとっては、この言葉が用いられたことは大変嬉しいことだったと思います。

贈り物は人の心を豊かにするものです。どんなに小さな贈り物でも、それを受ける人にとっては嬉しいものです。もし贈り物を受けた人に信仰があれば、その人は単に贈り物を受けたとは思わないでしょう。それは神が祝福を与えてくださったものだと思うでしょう。それは贈り物を受けた人だけではありません。贈り物を贈った人も、そのことによって自分が神から祝福を受けたと思うでしょう。こうして、贈った人とそれを受けた人とは共に神に感謝し、神を賛美します。贈り物は神を崇めるきっかけとなるのです。

ここで思い起こす聖書の箇所があります。それはペトロの第一の手紙の4章の10節です。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」

「神のさまざまな恵みの善い管理者」とありますが、これはどういう意味でしょうか。

先ほど言いましたように、贈り物は神の祝福であり、神の恵みです。私たちは贈り物を神から与えられた恵みとして贈ります。それが「神のさまざまな恵みの善い管理者」です。

贈り物は神からいただいたものであって、私たちが生み出したものではありません。もしそれを自分のもののように扱うとしたら、それは「神の恵みの善い管理者」ではありません。「神の恵みの善い管理者」は自分の持っているものの性質を知っています。それが自分のものではなく神の恵みであることを知っています。だからこそ、それを正しく扱うことができるのです。

そのとき、私たちはその賜物を生かして互いに仕えることができます。互いに仕えるというのは、お互いが贈り物の性質を知って、一緒になって神に感謝し、神を賛美し、神を崇めることができるようになるということです。パウロが「誇る」と言ったのはその点です。

コリントの教会の人々の贈り物がどの程度のものだったかは分かりません。しかし、それがそんなに立派なものではなかったとしても、パウロは彼らがどんな信仰をもって贈ったかを知っていたでしょう。

 

このように、パウロは奉仕の話をしながら、教会生活にとって大切な言葉を幾つか用いています。そのことによって奉仕というものが一段と輝いて見えます。奉仕は人を喜ばせます。奉仕を受けた人も行った人も喜びます。しかし、それにもまして大切なことは、そのことによってお互いが神に感謝し、神を賛美し、神を崇めることです。神に栄光を帰すことです。この箇所を書いているとき、パウロの心の中には、神に栄光を帰す業がここに行われている、という確信があったと思います。私たちも、その確信を抱きつつ、喜んで教会に、人々に仕えていきたいと思います。