「救いの喜び」

                     コリントの信徒への手紙二 1章2324

                                       水田 雅敏

  今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第2の手紙の1章の23節から24節です。23節でパウロはこう言っています。「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。」

神を証人に立てて、命にかけて誓います」とありますが、随分大げさな言い方です。事柄はコリントへ行くか行かないかということです。たかが旅の日程のことではないかとも思いますが、なぜパウロはこのように大そうな言い方をするのでしょうか。

 おそらくいろいろな事情があったと思います。パウロがコリントへ行くことによって、教会では、喜ぶ人もあったでしょうが、あまり喜ばない人もあったのでしょう。人と人との関係はいつでも複雑です。パウロはこのことに慎重に配慮したのでしょう。その行動の中心にあったのは、神を証人に立てて」とあるように、自分勝手な気持ちではなく、神のまなざしです。

 考えてみると、これはキリスト者なら誰でも思うことではないでしょうか。私たちの考えることも、行うことも、全て、神は御存じです。人は誤解するかもしれません。理解できないかもしれません。その時、私たちの慰めは、神は知っておられるということです。パウロはその神のまなざしを前にして自分の行動に恥じるところは少しもないというのです。

 当時、パウロは教会へ宛てた手紙を何通も書きました。それは教会に専従の牧師がいなかったからです。ですからその手紙は牧師の代わりであり、牧会の代わりになるものでした。パウロの務めは福音を宣べ伝えるということだけではありませんでした。教会をたてるという務めもありました。福音が宣べ伝えられたら教会ができます。信仰生活が教会生活になります。ですから、その教会をどのようにしてたてるかということが、福音を語るのと同じように重要になってくるのです。

 パウロがコリントの教会へ行くとか行かないとかいうことをとても重要なこととしているのは、そのことがコリントの教会を本物の教会にするために必要だからです。その時に問題になることは牧師と信徒との関係です、

キリストの教会が生まれた時に教会生活が成り立つために必要なものとして三つのものありました。まず、聖書です。聖書は教会生活の大もとになるものです。次に、その聖書に基づいてどう信じるかという信仰の基準、信仰告白です。さらに、それらによって信仰を導く牧師です。

 そうであるならば、牧師はどういう意味で指導者なのでしょうか。その時に大事な目安になるのは教会をたてるということです。教会をたてるというのは教会堂を建てるということではありません。キリスト者の集まりをまことに神のもの、イエス・キリストのものとすることです。牧師は、いつもそのことを心がけ、そのように教会に接します。また、信徒もそういう牧師を期待しなければなりません。パウロとコリントの教会の間にもそのようなやりとりがありました。それがここでは旅の話になって現れてきているのです。

「わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。」一見すると何でもない言葉のように見えます。しかし、コリントの教会とパウロとのやりとりを考えると、この言葉はそんなに単純なものではありません。パウロがコリントへ行くことについて、パウロとコリントの教会との間に微妙ないきさつがあったことは先ほど触れました。その結論として、コリントに行かずにいるのはあなたがたへの思いやりからだというのです。

  新共同訳聖書では「あなたがたへの思いやりからです」と訳されていますが、口語訳聖書では「あなたがたに対して寛大でありたいためである」と訳されています。「寛大」というのは別の言葉で言えば「赦す」ということです。コリントの教会とのやりとりから感じられるのは、パウロはコリントの教会に対して何か不満なことがあったのではないかということです。そうだとしたら、その不満なことをどうしたらよいのでしょうか。

  一つは、それを指摘して改めさせることでしょう。しかし指摘することがいつでもよい結果をもたらすわけではありません。それは教会であってもなくても同じことです。もう一つは、正しくないことはあくまで正しくないとしながら、これを赦すことです。それは寛大に赦すほうが結果としてよいからではありません。イエス・キリストが私たちをお赦しになっておられるからです。イエス・キリストは「七の七十倍までも赦しなさい」と言われました(マタイ1822)。「七の七十倍」というのは「際限なく」ということです。私たちはこの主の赦しのゆえに今があるのです。

 24節にこうあります。「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。」パウロは伝道者であり牧師でした。それゆえに福音を語り、福音を人に勧めました。それは自分が人々の信仰の支配者になりたいからではありません。信仰を支配することは人間にはできません。信仰を与えることも人間の業ではありません。信仰を与えてくださるのは唯一、神だけです。

 では牧師は教会において何をするのでしょうか。「むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。」「喜びのため」とありますが、これはどういうことでしょうか。信仰にとって最も重要なもの、それは喜びです。信仰のあるところにはいつでも喜びがあります。喜びのない信仰はあり得ません。喜びのない信仰というのは事柄が矛盾しています。なぜなら信仰というのは救いだからです。救いとは自分の生きていることと死ぬことの全部が救われることです。ですから、救われた時に第一に感じるのは喜びです。それほど信仰と喜びとは関係が深いのです。牧師というのはその喜びのために協力する者です。一緒になって喜びを成就するのです。説教することも、教えることも、勧めることも、一緒に祈ることも、全て、この喜びのためなのです。

「あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。」「信仰に基づいてしっかり立つ」とはどういうことでしょうか。実は、原文には「しっかり」という字はありません。おそらく、訳す時に意味を強めるためにこの字を補ったのだと思います。なぜなら、信仰に基づくということはいつでもしっかり立つことだからです。信仰は自分の力によって立つことではありません。神の力によって立つことです。神の力によってしっかり立つようにさせられるのです。