「キリストを知らせる香り」 

                    コリントの信徒への手紙二 21217節 

                                             水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の2章の12節から17節です。

12節から13節でパウロはこう言っています。「わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。」

パウロは以前からコリントの教会へ行こうと思っていましたが、なかなかそれができずにいました。そこで手紙を書いてテトスに持って行かせました。テトスとはトロアスで落ち合うことにしていたのですが、彼に会うことができませんでした。このことはパウロにとって悩みのもととなりました。

パウロはなぜテトスに会うことを待ち焦がれていたのでしょうか。それはテトスに渡した手紙の結果がどうだったか心配でたまらなかったからです。パウロが書いた手紙は非常に激しい内容のものだったので、それを読んだコリントの教会の人たちが素直に聞いてくれるかどうか不安だったのです。

しかし、パウロの心配に反してその結果は大成功でした。それはパウロが思わず何の説明もなしに「神に感謝します」と書いてしまうほどでした。14節にこうあります。「神に感謝します。」いきさつは詳しくは分かりませんが、ともかくパウロにとっては大変ありがたく嬉しいことだったのです。

そして、そこで思うことは、「神が、このように導いてくださったのはこのことだけでなく、あらゆることについて言えることだ」ということでした。14節にこうあります。「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ」。神のなさることにはいつもキリストが一緒にいてくださるのです。

救われるということ、それは、私たちがキリストとの戦いに敗れ、キリストが私たちを率いて勝利の行進をすることです。キリストと共に肩を並べて歩くのではありません。私たちはその行進の一番後ろに鎖に繋がれて引かれて行く捕虜なのです。そのことを私たちはよくわきまえていなければなりません。

私たちは、イエス・キリストを信じるということは、キリストのまねをすることだと思ったり、キリストの教えを守ることだと考えることはあります。しかし、キリストに負けたとはあまり考えないのではないでしょうか。キリストの勝利の行進において私たちはキリストの勝利を証明するしるしです。人々は私たちを見てキリストが勝ったということを知るのです。

私たちが見せることのできるものは私たちを縛っているキリストの恵みです。キリストの恵みのゆえに身動きもできず、ただキリストの命じるままにキリストの勝利を証しする者になることが必要なのです。

キリストが私たちに勝ったというのなら、私たちはキリストに支配され、そのお望みになるままの信仰生活をしなければなりません。そうでなければ、私たちはキリストとは何の関係もない者になってしまいます。

14節でもう一つ明らかにされているのは、キリスト者はキリストを知るという知識の香りだということです。「わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」

当時、勝利の行進には一つの行事がありました。それは匂いの良い香りを振りまくというものです。そのことを知っていたパウロはキリストの勝利の行進を語るのに「香り」という言葉を用いています。

キリストの勝利の行進に引き入れられている私たちの務めはキリストを知らせることにあります。香りというものは特別に気をつけなくてもいつの間にか人に迫ってそれと気づかせるものです。神は私たちを通してキリストを知らせる香りを至る所に漂わせてくださいます。ちょうど行進の時にまかれる香りが勝利を告げ知らせるように、キリストの勝利を知らせるのです。

しかし、キリストを知らせるということは決して単純なことではありません。なぜなら、キリストを知って、これを受け入れる者は救われますが、これを拒否する者は滅びなければならないからです。15節にこうあります。「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」

私たちは、イエス・キリストを信じることによって救われると思っています。しかし、もし信じなければ滅びるとまで考えているでしょうか。キリストはそのどちらかを受けることをお求めになるのです。キリスト教は単なる教養だったり飾りであることはできないのです。

ですから、16節にまことに厳しい言葉が出てきます。「滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。」香りのようなあまり力のないように見えるものが人を救いと滅びとに分ける役割を果たすものになるのです。

キリストはパウロを救い、勝利の行進をさせてくださいました。パウロはそれを心から感謝しています。しかし、そのようなキリストの御業の行われるところにはいつも命と滅びとが起こります。それがパウロをはじめキリスト者である私たちの務めなのです。

それが単なるお話しでないことは次の言葉が表しています。16節にこうあります。「このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」まことにその通りです。誰がこのような恐ろしい業をすることができるでしょうか。しかも、それが事実、私たちに与えられていることなのです。

「だれがふさわしいでしょうか」とありますが、「自分ならやれる」と言う人がいたのかもしれません。コリントの教会にそういう人がいるということを、パウロは聞いていたのかもしれません。

では、そういう人に対してパウロはどういう態度を取るのでしょうか。17節にこうあります。「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」

パウロはここで慎重に一つ一つを押さえるように語っています。

まず、「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にしない」ということです。「売り物にする」というのは文字通り、神の言葉を語ることによって利益を得るということです。神の言葉をもって商売しようという人はおそらくいないでしょう。しかし、神の言葉を神の言葉として正しく語ろうとしない誘惑は決して少なくありません。例えば、それは人が喜ぶような神の言葉の語り方です。聞く人が気に入るように語ってしまうのです。神の言葉の力を発揮させないのです。

次の「誠実に」というのは平凡なことのように見えます。しかし、誠実に事に当たることはそんなに易しいことではありません。そのつもりでいても緊張を欠いたりしがちであることは誰にでも分かることではないでしょうか。

最後の三つはパウロが特に念を入れて語ったものだと思います。

第一は「神に属する者として」語るということです。「神に属する者」というのは、神との繋がりの深い人、あるいは神との繋がりを保つことのできる人のことです。神の言葉は人間の力によって語れるものではありません。神の言葉は世の知識ではないからです。ですから、この仕事をする資格を持っている者は誰もいません。ただ神がお選びになった者だけに許される務めです。したがって、選ばれた者も、自分にその力があるというのではなくて、自分が神に用いられているということを深く自覚しなければなりません。

第二は「神の御前で」ということです。「神の御前」とはどこでしょうか。礼拝の時だけが神の御前でしょうか。この言葉は神に向かって立っていることを表しています。つまり、どこかで神が見ておられるというのではなくて、まるで神に向かって語るように語るということです。

では、私たちを神に向かわせるものとは何でしょうか。残念ながら私たち人間には神に合わせる顔はありません。私たち人間を神に向かわせる唯一の道、それは「キリストに結ばれる」ことです。それが第三です。キリストに救われて初めて私たちは恐れなく神にお会いすることができるのです。