「キリストの手紙」 

                     コリントの信徒への手紙二 313節 

                                       水田 雅敏 

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の3章の1節から3節です。

1節にこうあります。「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。」

パウロがこのように語る背景には当時の世界において広く行われていた慣習があります。それは人と一緒に推薦状を送るという慣習です。例えば、ある人が未知の人々の間に入っていく時、その人々の中に知人を持つ友人にお願いして自分を紹介する推薦状を書いてもらうのです。

キリストの教会でも推薦状が役に立つことがありました。キリスト者が旅をしてどこかの教会を訪ねる時、自分が確かな人物であるということを書いてもらうのです。新約聖書の中にその例を見ることができます。一つは使徒言行録の18章の27節です。「兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。」またローマの信徒への手紙の16章の1節から2節にこうあります。「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。」

当時のキリスト者はどうしてそういう推薦状を持っていくことが必要だったのでしょうか。その頃の教会はしばしば偽教師たちや偽預言者たちに悩まされていました。そのため、訪ねてきた人々を厳しくチェックする必要がありました。その時、推薦状があれば安心して受け入れることができたのです。

コリントの教会に入り込んで来た偽教師たち、今日の聖書では1節で「ある人々」と言われている人々ですが、彼らはどこかで推薦状を手に入れ、それを振りかざして威張っていたのでしょう。それだけでなく、パウロがそういう推薦状を持っていないことを指摘して、彼は本当の使徒ではないと言いふらしていたのでしょう。しかし、そのような推薦状がパウロに必要だったでしょうか。パウロとコリントの教会は推薦状を必要としなければならないほど知らない間柄だったのでしょうか。厳しくチェックされなければならないほど、パウロはコリントの教会にとって危険な存在だったのでしょうか。

そんなことはありません。パウロこそコリントの教会の生みの親でした。コリントの信徒への第一の手紙の4章の15節でパウロはこう言っています。「キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。」パウロは全く何もない所からコリントの教会を建て上げていったのです。ですから、コリントの教会におけるパウロの位置は決定的なものでした。さらにコリントの信徒への第二の手紙の1章の14節でパウロはこう言っています。「わたしにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい。」パウロとコリントの教会とはお互いに誇り合える間柄であることを意識することができるほどの仲だったのです。

ですから、今日の聖書の2節でパウロはこう言っています。「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。」

パウロの推薦状は、書かれた一片の紙切れなどではなく、生きているコリントの教会の人たち自身です。コリントの教会の人たちがキリスト者としてそこに存在しているだけで、パウロにとっては十分な推薦状になるのです。しかも、仰々しい推薦の言葉をむやみに並べ立てたりしなくても、それは「心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。」

ある人がこういうことを言っています。「牧師は一切、自分の立場を弁解してはならない。その牧師が牧会している教会自身が語っている。」またある人はこう言っています。「私は教会の礼拝に一回出るだけでそこの牧師が分かる。」パウロがここで語っていることはそういうことだろうと思います。

3節の前半にこうあります。「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。」

コリントの教会の人たちは、パウロの推薦状であるだけでなく、キリストがパウロを通してお書きになった手紙だというのです。確かに、コリントの教会の人たちの多くはパウロの伝道によって信仰に入りました。ですから、彼らはパウロの奉仕という筆で書かれたキリストの手紙です。

しかも、3節の後半ですが、「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」

パウロの伝道活動も、それによってコリントの教会の人たちが救われたのも皆、聖霊の働きによるものだったのです。

教会によっては洗礼を受けた人に証明書を出しているところがあります。それは今日における推薦状のようなものかもしれません。しかし、そういうものがなくても、その人の信仰生活を見て、この人は確かに洗礼を受けたキリスト者だと分かることの方がよっぽど大切です。

ガラテヤの信徒への手紙の5章の22節から23節でパウロはこう言っています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」聖霊の結ぶ実、それは信仰生活に現れます。「心の板に書きつけられたから目に見えないのだ」と言って隠すことはできないのです。

キリストは私たちの信仰生活をご覧になって、それが自分の手紙だとお認めになるでしょうか。ある人が「キリスト者はキリストの広告である」と言っています。「我々はレストランのシェフをその人が作った料理で判断する。職人をその人が作ったものによって判断する。同様に、世の人はキリストを教会とキリスト者たちによって判断する」と。

すべての教会とキリスト者は、好むと好まざるとにかかわらず、キリストがお書きになった手紙です。私たちはキリストの手紙です。この手紙の差出人はキリストです。その内容は福音です。その宛先はこの世です。私たちは、私たちの家族に、私たちの職場に、私たちの住む地域に、福音を告げ知らせるよう神から召されているのです

 

けれども、私たちは弱く、力のない者です。そのような私たちが福音を告げ知らせることなどできるでしょうか。聖霊が導いてくださいます。キリストご自身が私たちの口を通して語ってくださいます。そのなさりように、私たちは身を委ねるだけでよいのです。