「確信を抱く」

                                                    コリントの信徒への手紙二 346

                                                                                    水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の3章の4節から6節です。

4節でパウロはこう言っています。「わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。」

「このような確信」とあります。伝道というのは確信がなければできません。まず、何を語るかということについての確信がなければなりません。また、そのことに対して自分がどういう立場にあるかということについて知っていることも大切です。パウロはこれらのことをいつも考えていました。

そして、その確信を「神の前で抱いている」と言っています。確信を誰に対して持つかということは案外はっきりしないことです。最も確かなことは神が認めてくださることです。誰が何と言おうと神が承知してくだされば安心です。しかも、宣べ伝えるのは神の福音です。神以外の誰の許可も必要ないのです。

では、私たちはどのようにして神に対して確信を持つことができるのでしょうか。それは「キリストに」よります。なぜなら、キリスト以外に神との間の仲立ちになり、私たちと神とを結ぶことができる方はおられないからです。神に近づくことのできない私たち人間がキリストによって罪を赦され、福音を宣べ伝える者にさせられるのです。

そうであれば、このような確信をキリストにより神の前で抱くということは、私たちが信仰生活をする時にいつでも考えておかなければならないことです。

どうしてそうなのでしょうか。それは私たちにはそういう力がないからです。5節にこうあります。「もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。」

「資格」という言葉が二度出てきます。信仰を持つ資格は神から来ます。信仰を持つということ、それは人間の決心や覚悟でできることではありません。信仰は神から与えられるものです。救いは神から来るのです。

それは具体的にはどういうことなのでしょうか。6節にこうあります。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」

契約というのは両方の人が必要です。そうでなければ成り立ちません。旧約聖書ではそれは神とその民イスラエルでした。それは神と人間との関係を教えるものでした。普通は両方から条件を出し合って、話し合いの末、折り合いをつけて契約を結びます。しかし、聖書の契約はそういうものではありません。それは神と人間とが対等ではないからです。そこで旧約聖書の契約は、神が条件をお造りになって、人間が愛と真実とをもってこれを受けるという形を取りました。ですから、それは契約には違いありませんが、その内容から言えば神の約束と言えます。その約束の条件が十戒という戒めになりました。イスラエルの民はこれを重んじて守ろうとしました。しかし、戒めは彼らにとって重荷となり、神の約束を素直に信じることができなくなってしまいました。

そこでイスラエルの民には新しい契約を求める思いが生まれました。それを語ったのが預言者エレミヤです。エレミヤ書の31章は新しい契約の到来を告げています。エレミヤ書の31章の31節から34節にこうあります。

まず、31節です。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」「新しい契約」という言葉が出てきます。

32節にこうあります。「この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。」イスラエルとの契約は出エジプトの話にいつも結びつきます。そこに神の具体的な救いがありました。「わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」神とイスラエルは契約関係にあったのに、イスラエルはその契約を破ってしまったのです。

33節から34節にこうあります。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」こうして新しい契約が立てられると預言者エレミヤは言うのです。

では、新しい契約と古い契約の違いは何でしょうか。新しい契約と古い契約とはどこが違うのでしょうか。今日の聖書の6節でパウロはこう言っています。「文字は殺しますが、霊は生かします。」

パウロは、古い契約を「文字」と言い、新しい契約を「霊」と言っています。古い契約は律法に書いてあったから「文字」と言ったのでしょう。それに対して、パウロが生きていた時代、まだ新約聖書ができていなかったので、新しい契約を「目に見えない霊によるもの」と言ったのでしょう。

「文字は殺します」。言い換えると、「律法は人を殺す」ということです。しかし、律法は神から契約として与えられたものですから、律法そのものが人を殺すはずがありません。では、どういうことでしょうか。ある人が次のように言っています。「律法は人を殺す。なぜなら、人間は律法を守ることができないからだ。」律法の問題は人間が律法を守ることができるかできないかにあるのです。もし、人間が律法を守ることができたなら、古い契約は生き続けたでしょう。しかし、守ることができなかったために古い契約は無効になりました。「文字は殺します」。つまり、そのような人間の行き着く先は滅びだというのです。

私たちはここで、なぜ神が人間に新しい契約をお与えになったかを知らされます。それは人間が神に対して契約を守ることができなかったからです。神に背くということを私たちはあまり深く考えないかもしれません。それは神の反応が目に見えて現れないからでしょうか。しかし、信仰は生き死にに関わることです。神に従ってまことの命を受けるか、神に背いて死を招くかです。

 

「文字は殺しますが、霊は生かします。」「霊」というのを「福音」と読み替えるといっそう分かりやすくなるのではないかと思います。「文字は殺しますが、福音は生かします。」すなわち、イエス・キリストの十字架の救いです。神の愛です。だから、人間を生かすのです。パウロはこのような確信を与えられたのです。私たちも同じ確信を与えられて、まことの命を得たいと思います。