「聖霊に導かれて歩む」

                      使徒言行録2113

                              水田 雅敏

 

ペンテコステ、おめでとうございます。聖霊の導きが皆さんの上に豊かにありますように。

もともとペンテコステ、五旬祭というのはユダヤ教の過越の祭りから50日後の祭りでした。砂漠の民として歩んできたイスラエルの民の生活が遊牧の生活から農耕の生活に変化したことによって、この時期は麦の収穫と重なりました。五旬祭というのは収穫の祭りだったのです。

他方、五旬祭は神がシナイ山でモーセを通して律法を与えてくださったことを記念する祭りでもありました。エジプトを脱出したイスラエルの民が神の民として召され、礼拝と生活の規範としての律法が与えられたことを感謝し、記念したのです。キリスト者がペンテコステを祝う以前からユダヤの人々は旧約聖書の出来事を記念する祭りとして祝っていたのです。

新約聖書はこのペンテコステ、五旬祭に新しい意味を与えています。

今日の聖書の1節から3節にこうあります。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」  

1節に「一同」とあります。これは誰のことでしょうか。1章の13節以下にそのことについて書かれています。「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」使徒たち、婦人たち、イエスの母マリア、そしてイエスの兄弟たち、「一同」というのは、彼らのことです。

けれども、彼らのうちイエスが十字架にかけられたときに最後まで従い続けた人は一人もいませんでした。自分の強さ、信仰の深さからイエスに従ったと思う人ならいたかもしれません。ペトロもイエスのためならたとえ火の中水の中と思っていました。けれども、鶏が鳴く前に三度、「イエスを知らない」と言いました。尊敬してきたイエスの苦難、死に際して、誰も最後まで従い続けることはできなかったのです。しかし、イエスは死者の中から復活されて、彼らと会ってくださいました。だから、彼らはまた集まることができたのです。祈りを合わせることができたのです。

私たちキリスト者の集まりは自分に対する自信や自分の信仰深さによって造られるのではありません。そうではなくて、自分の弱さ、自分のふがいなさ、自分の至らなさに気づかされた者に復活のイエスが出会ってくださるから、教会を造ることができるのです。

使徒たちが集まるためには何かを犠牲にしなければなりませんでした。私たちも家族との団らん、友人との遊びの時間など、大きなものから小さなものまで何かを捨てなければ教会に集うことはできません。ペンテコステのときに使徒たちが捨てたもの、それは自分自身でした。己を捨てたのです。ペンテコステの出来事は、自分の弱さに気づいた使徒たちに聖霊が降ることによって、「神のようになろう」、「人と比較して生きよう」、「自分のことを理解しろ」といった自己中心的な思いから解き放たれる出来事でした。

4節以下を読みますと、聖霊に満たされた一同は「ほかの国々の言葉で話しだし」、それを聞いた人々は「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と言って驚きました。聖霊が働くとき、自分自身が打ち砕かれて新しい人に変えられると共に、人と人とを隔てていた隔ての壁が取り除かれるのです。

それは決して自分の努力や能力でできることではありません。自分で自分を変えることができるのであれば、とっくに私たちは変わっているはずです。分かっていても変わることができない、それが私たちの現実ではないでしょうか。そのような私たちに働いてくださるのが聖霊なのです。

聖霊は私たちキリスト者を動かす神の霊です。聖霊なしには何もできないのがキリスト者です。ですから、聖霊を祈り求めることは自然なことなのでありますけれども、私たちが祈るから聖霊が与えられるのではありません。自分が欲しいから与えられる、祈り求めるから思い通りになるというものではないのです。

2節に「激しい風が吹いてくるような音」とあります。この「風」というのは聖霊が自由であることを表しています。人間が風を自由に吹かせたり、止めたりすることはできません。

3節に「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。この「炎」は神の力を現しています。火が油を燃やして炎を生じさせます。油は最初から熱いわけではありません。けれども、どんなに冷たくても聖霊がそれに触れると炎のように燃えるのです。神の力によって燃えるのです。そして、その燃え方は、みんな同じようにではなく、「一人一人」を大事に生かしながらなのです。

神はいつも私たちキリスト者を聖霊の炎で燃やそうとしておられます。イエスは1章の4節でこうおっしゃっています。「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」「父の約束されたもの」とあります。これは天から聖霊が注がれることです。聖霊を受けるには神の時を信じて待つことが大事なのです。

使徒たちは聖霊を受けたあと、どのように生き始めたのでしょうか。一言で言えば、イエスのように生き始めました。それまで使徒たちは人の評価を気にして生きていました。「われわれの中で誰が一番偉いのか」ということが頭から離れませんでした。「誰がイエスの右と左に座るのか」という地位争いをしていました。しかし、聖霊が注がれて、使徒たちはもはや人との比較、他人の評価を気にして生きる必要がなくなりました。イエスのように、神のほうを向いて、その神から与えられた使命に生き始めたのです。

信仰の使命は、自分がしたいことではなく、神からさせていただくことです。与えられている使命を受け止めるためにも、私たちは祈りの時を持たなければなりません。祈りなしに行動したり、祈りだけで行動しないということはないでしょうか。祈りのない行動は慌てて走り回ることになりますし、行動を生み出さない祈りは人と人とを結びつけることができません。

 

聖霊は分かれ分かれに現れました。ですから、私たちの使命も一人一人違います。けれども、神を証しすることに変わりはありません。それぞれの働きを通して神を証しすること、それが私たちに与えられている使命なのです。