「わたしも赦します」 

                           コリントの信徒への手紙二 2511

                                            水田 雅敏 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の2章の5節から11節です。5節でパウロはこう言っています。「悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。」「悲しみの原因となった人」とあります。おそらくこの人は何らかの意味でイエス・キリストの十字架に敵対して歩んでいる人だったと思います。

前回私たちはフィリピの信徒への手紙の3章の18節の言葉に触れました。フィリピの信徒への手紙318節でパウロは次のように言っています。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」キリストの十字架が信仰生活の中心であることを忘れている人、あるいはキリストの十字架を全く信じないで歩んでいる人が少なくないというのです。そういう人がコリントの教会にいて、教会全体を悲しませることになったのです。

さらに6節を見ると、この人は多くの者から罰を受けました。6節にこうあります。「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。」「あの罰で十分です」とありますが、教会に罰があるのでしょうか。あるのです。教会はキリストの体として守られるために教会をきよめていかなければなりません。そのため、どの教団にも「戒規」といわれるものがあります。もちろん戒規は簡単に用いられるべきものではありません。しかし、教会を悲しませ憂えさせるようなことがあった時には用いなければなりません。この罰が何だったかは何も書いてありません。書き方から見ても、そんなに重いものではなかったでしょう。

7節でパウロは自分自身の考えを明らかにしています。「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。」パウロの考えはその人を「赦す」ということと「力づける」ということです。

「赦す」とはどういうことでしょうか。この「赦す」という言葉はもともと「恵み」という言葉から出たものです。「恵み深くしてあげる」とか「親切にしてあげる」とか、そういう意味の言葉です。ですから、赦すことの一番大事なことは「恵みを与える」ということです。

ここで参考になるのはローマの信徒への手紙の8章の32節です。ローマの信徒への手紙の8章の32節でパウロは次のように言っています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」この「賜る」というのが「恵み」という言葉です。イエス・キリストをお与えになった神は一切のものを与えてくださるほどに恵み深いお方だというのです。

違反した人をどのように扱ったらいいか、それには神がどんなに私たちに恵み深くいてくださるかを思ってみることです。それは御子と共に全てのものを与えてくださるほどの恵み深さでした。神はその恵みのゆえに私たちの罪を赦してくださったのです。そうであるなら、私たちは違反した人に対してもそうすべきではないでしょうか。「この人をも神はお赦しになるに違いない。それなら、神がお赦しになる者をわたしたちが赦さないということはあってはならないことではないか」とパウロは言うのです。

では、「力づける」とはどういうことでしょうか。それは違反した人を赦し、再び起き上がらせて、信仰の道を歩ませることです。8節にこうあります。「そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。」「あなたがたは違反した人に対して愛を示しなさい」といいます。これは具体的にはその人を再び教会生活の中に招き入れることです。教会生活は愛を確認させる力を持つものなのです。

9節にこうあります。「わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。」「従順」とありますが、これは何に対する従順なのでしょうか。もちろんパウロは自分に対して従順であるかどうかなどと言っているのではありません。そうではなく、これはイエス・キリストに対して従順であるかどうかということです。イエス・キリストを信じ、キリストによって生きる者は、そのキリストの恵みによって人を赦すことを最も重要なこととして考えなければならないのです。

このコリントの信徒への第二の手紙は多くの涙をもって書かれた手紙です。それは始めに言いましたように、キリストの十字架に深く関わりがあります。ですから、愛を示すことはキリストの十字架による赦しと結びついています。パウロはそれこそが信仰の中心だと考えていました。だから、「試す」と言うのです。「試す」というのは純粋であるかどうかを試すことから始まった言葉です。ここではその信仰の確かさを確かめるということです。

10節にこうあります。「あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。」「自分は違反した者を既に赦している。それはあなたがたのためであり、イエス・キリストの前においてだ」と言うのです。なぜでしょうか。なぜなら、イエス・キリストがお赦しになったからです。パウロ自身がキリストによって赦された人間だからです。それが「キリストの前で」ということです。だから、赦すことができるのです。

11節にこうあります。「わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。」私たちキリスト者の生活にとって大事なのはサタンの罠にかかってその信仰を無にしないことです。「サタンのやり口」とはイエス・キリストの救いを台無しにしてしまうことです。キリストの救いが分からなくなってしまうことです。自分のような者は救われるはずがないと考えるようになることです。

私たちにとっての最大の誘惑は、「自分は結局は救われない」と思うことです。「キリストの十字架だの復活だのということは必要ない」と思うようになることです。そうなれば、それはまさにサタンの思う壺です。神の業を憎むサタンの思い通りです。サタンはあらゆる手段を用いてうまく攻めてきます。パウロはいつもその危険を身に感じていたのです。

 

神がまことに神として畏れられるのは、神の厳しさ、神の聖さのゆえではありません。そうではなく、神が人をお赦しになるからです。神に赦された者は「まことに神は神だ」と信じ、畏れるようになるのです。神は罪を甘く見られることはありません。それゆえにこそ、神は悔い改める者のまことの避け所なのです。