「主の方に向き直る」     

                        コリントの信徒への手紙二 31218節 

                                               水田 雅敏 

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の3章の12節から18節です。

12節でパウロはこう言っています。「このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており」。

「このような希望」とあります。これはこのあとの18節に記されている「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていく」という希望です。今、自分は困難な状況にあるけれども、このような希望を神から与えられているので確信に満ちて行動しているというのです。それはパウロがどんなに確かな立場に立っているかということでもあります。パウロに大いなる希望と確信があるのは彼が福音によって生きているからです。だから、何をも恐れることなく自由に大胆に行動し語ることができるのです。福音を語るには上からの力が必要です。ただ口先だけで福音を語ることはできません。自分がはっきりとした確かなものに支えられていなければ福音を告げることはできません。ですから、パウロが今語るとすれば、自分をこのように立たせている福音について語ることになります。

では、パウロは福音をどのようにして語るのでしょうか。パウロの目の前に今はっきりと示されているのは古い契約、旧約においてモーセが神の御旨をどのようにして語ったかということです。モーセはイスラエルの民の指導者であり、彼らをエジプトから救い出した人でした。古い契約、十戒を与えた者として尊敬を集めていた人でした。モーセこそは律法学者の父であり、神の御心を最も忠実に解釈することのできる人でした。パウロはそのモーセを引き合いに出して、福音を告げる者としての自分の立場を示そうとするのです。

では、古い契約にはどのような特徴があるのでしょうか。モーセが神の掟を受けたときのことについては出エジプト記の34章に書かれています。出エジプト記の34章の34節から35節にこうあります。「モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた。」モーセは主の御前で語る時は顔の覆いをはずし、再び主と語るまでは覆いを顔に掛けていたといいます。

そのことを取り上げて説明したのが、パウロが13節以下に語っていることです。

13節にこうあります。「モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。」

パウロはまず、モーセが顔に覆いをしたということが旧い契約の性質をあらわしているといいます。すなわち、モーセが顔に覆いをかけたのは古い契約が消え去るべきものだったからだというのです。

そして、顔に覆いをすることの意味について語ります。14節にこうあります。「しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。」

パウロは、古い契約を読むこと、それは顔に覆いをして神に対するようなものだといいます。「彼らの考えは鈍くなってしまいました」とあります。「鈍くなった」というのは頑なになったということです。融通の利かない、受け入れる力のないものになってしまったということです。つまり、イスラエルの人々は古い契約を通して神の御旨を知ることができなかったのです。

しかも、このことは昔の話ではなく今日に至るまでイスラエルの民が古い契約を朗読する場合にはいつでもそうだといいます。15節にこうあります。「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。」

モーセのあとに多くの預言者たちが起こされました。しかし、彼らは古い契約について語っても何の光ももたらすことができませんでした。ただ人々の心の頑なさを指摘するだけで、それを助けることはできませんでした。ただ人間の罪の深さがいよいよ明らかにされるだけでした。例えば、預言者イザヤはイザヤ書の6章の9節から10節で次のように語っています。「主は言われた。『行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するな よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔い改めていやされることのないために。』」

このように、パウロの言う「覆い」というのは古い契約の意味が分からないということを象徴するものです。実際に布か何かで作られた覆いのようなものがあるわけではありません。では、何が人々を見えなくしてしまっていたのでしょうか。それは人間の罪です。罪がある限り、神から何が示されても、それは人間には覆いがかかっているもののように見ることができないのです。

しかし、16節で話は一転します。「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。」

「主の方に向き直る」とあります。これはイエス・キリストに向き直る、イエス・キリストを信じるということです。イエス・キリストを信じれば、覆いが取り去られるのです。それは、何か覆いのようなものがあって、それが無くなるということではありません。どこまでも人間の罪に問題があります。古い契約がその罪を処理することができないということです。しかし、イエス・キリストにはそれができるのです。

17節にこうあります。「ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。」

既に読みました6節以下の所で、パウロは古い契約と新しい契約との関係を「文字」と「霊」とに関係させて説明しています。6節にこうあります。「文字は殺しますが、霊は生かします。」言い換えますと、モーセは文字の方に関わり、イエス・キリストは霊の方に関わるということです。つまり、イエス・キリストを信じることによって、人間は神の御旨を知ることができるのです。信仰によって、人間は真に生きることができるのです。

18節にこうあります。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」

私たちは、イエス・キリストのゆえに顔の覆いが取り除かれて、罪が取り去られて、見ることができるようになりました。では、何を見ようというのでしょうか。それは「主の栄光」です。今、私たちは地上の生活をしています。イエス・キリストを信じたからといって天上に移されたわけではありません。ですから、主の栄光が全て見えるわけではありません。今は「鏡」に映し出すようにして見るほかはありません。

では、主の栄光を見てどうなるというのでしょうか。「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」主の栄光を見た者は栄光を受けます。それは私たちの体が光り輝くようになるということでしょうか。そうではありません。それは私たちの救いに関わることです。私たちは自分自身の救いについて、いよいよ確かな希望と確信を与えられるのです。神の子とさせられたことを深く信じ、イエス・キリストとの交わりを深めることができるようになるのです。主との親しさを知ることができるようになるのです。主の喜び、主の苦しみを味わう者とさせられるのです。

「これは主の霊の働きによることです。」イエス・キリストは霊によって働き、私たちを神のものとし、それにふさわしい力と装いとを与えてくださるのです。主の霊、聖霊は罪によって失われた信仰を私たちの中に回復します。この回復は私たちの生涯を通して進められます。主はその栄光をいつも私たちに照らしてくださるのです。