「永遠の栄光」 

                         コリントの信徒への手紙二 41618節 

                                                   水田 雅敏

 

聖書の言葉は大きな力を持っています。ですから、初めて聖書を読む人にも感銘を与えることがしばしばあります。しかし、それだけに聖書の言葉を自分に都合のよいように読んで感心することもあるかと思います。しかし、それでは聖書を読んだとは言えません。聖書の言葉はそこでどういう意味で語られているかということをよく知って読むことが大切です。

今日の聖書の箇所もそうです。この箇所を自分の経験で読もうとする人もあるでしょう。しかし、そのために、聖書が告げようとしていることとは違った意味に読んでしまうこともあると思います。

16節でパウロは次のように言っています。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」

だから、わたしたちは落胆しません」とあります。これを自分の経験から読もうとする人は、自分ががっかりした時のことを思い浮かべて、それを励ましてくれる言葉だと考えるかもしれません。しかし、パウロが何に落胆したかがよく分からないとこの言葉の意味を正しく知ることはできません。これはただがっかりした時の励ましの言葉ではないのです。ここで語られているのはイエス・キリストのために伝道している人たちのことです。ですから、この言葉は、伝道の生活をしながら、どんな困難なことに遭っても落胆しないで、自分に与えられた務めを全うするということです。キリスト者として伝道の生活を崩すことがないということです。

「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」

これは肉体が衰えていくとしても心は元気になる、ということではありません。そうではなく、信仰によらないことは衰えていくとしても、信仰はますます豊かにされていく、ということです。なぜなら、私たちキリスト者はイエス・キリストによって日々新たにされていくからです。

新たにされるのは、私たちの努力や力によるのではなくて、イエス・キリストによります。ですから、それはどこまでも神の御業、イエス・キリストの御業です。それゆえ、私たちはイエス・キリストの力をいただくほかありません。イエス・キリストの力にお委ねするほかありません。私たちはこういう生活をします。

ですから、その生活の仕方は一般の生活とは変わったところがあるはずです。もちろん、外見の問題ではありません。外から見ればキリスト者もそうでない者もそんなに違いはないかもしれません。しかし、その望むところ、その見るところがすべて違ったものになるのです。

17節にこうあります。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」

私たちの「外なる人」はいつかは滅びます。死によって滅びます。もしも、外なる人の住みかであるこの世のことだけを考えたら、私たちは落胆するほかないでしょう。しかし、私たちに与えられるものはこの世のものではありません。

「比べものにならないほど重みのある永遠の栄光」とあります。私たちの生活の最終的な希望は「永遠の栄光」を受けることにあります。すなわち、神の栄光を受けることにあります。そのことに比べれば、今受けている艱難は物の数ではないとパウロは言うのです。しかも、この艱難が神の栄光をもたらすというのです。艱難が神の栄光をもたらす原因になっているというのです。イエス・キリストのために苦しむ生活をすることが神の栄光を受ける備えになり、力になるというのです。

パウロがこのように言うのには理由があります。それは神の永遠に渡る計画です。長い長い時を経て、神はその計画を進められ、ついにはイエス・キリストをこの地上にお送りになり、その救いを全うされました。イエス・キリストを通して神の栄光が完全に現されたのです。私たち人間のほうから言えば、イエス・キリストの御業により救われることによって神の栄光にあずかることができるようになったのです。

パウロはキリストの教会を迫害することによって、かえってイエス・キリストに捕らえられた人でした。それによって、神の敵であるはずの彼が神の子とされるに至りました。パウロはイエス・キリストの御業を思うたびにこの光栄を忘れることができませんでした。神はこのような驚くべき御業を信じる者に備えられたのです。

コリントの信徒への第一の手紙の2章の9節でパウロは次のように言っています。「しかし、このことは、『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された』と書いてあるとおりです。」

このようなパウロの考えを知らされて、しみじみ思うことがあります。それは今日の一部のキリスト者は信仰の考えが違っているのではないかということです。それは、このような神の栄光を受けることを喜ばないで、目に見えることばかり求めようとするということです。目に見えることというのは手で触れることができることでもあります。つまり、現実的なことばかり求めるのです。信仰の生活といっても、それがすぐに目に見えて効果がないと納得できないのです。信仰が与えられると、それがすぐに役に立つものにならなければならないように思うのです。具体的な結果をすぐに得たいという意味では、これも一種の御利益主義かもしれません。

18節にこうあります。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

パウロの最終的な希望は神の栄光を受けることでした。それはパウロが見えないものに目を注いでいる最も良い証拠です。なぜなら、神を信じるといい、イエス・キリストによって生きるといい、救いを受けるといい、そこには目に見えるものは何一つないからです。パウロはいつも見えない永遠の世界を仰ぎ見ている人でした。彼にとって見えない永遠の世界は最も現実的なことでした。それゆえに、何の話をしても、いつもここに帰って来るのです。

ある人が次のようなことを言っています。「超自然的なことに依り頼まず、現在の実際的なことに執着し、自己流の常識を誇ることによって、今日のキリスト教は広い視野を失い、天の光景を見ることができなくなっている。」

私たちの信仰はどうでしょうか。あまりにも実際的になってはいないでしょうか。身近なことに振り回されて、天を仰ぎ、永遠を望む心を失ってはいないでしょうか。

失望し、落胆することもあります。もし、それが自分勝手なわがままのための困難ならば、救いは難しいでしょう。なぜなら、その利己的なことから救い出されなければどうにもならないからです。しかし、もし、ひたすら信仰の道を辿り、イエス・キリストに従い、主によって生きようとして困難に陥ったのであれば、そこには望みがあります。いや、望みがあるどころか、そこからは神の栄光が与えられる道が開け、それが押し進められていきます。

イエス・キリストによって生きるために労苦することは、この地上の生活の中でまことに生きる道です。ここに地上の生活をも真に生かす道があります。イエス・キリストのための苦難は、私たちにとって偶然なことではなく、神がお与えになるチャンスなのです。