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「わたしたちのために」
コリントの信徒への手紙二 5章20~21節
水田 雅敏
パウロという人は信仰に入ると同時に伝道者として召された人でした。例えば、ガラテヤの信徒への手紙の1章の15節から16節で自分が受けた召命について次のように言っています。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」。
ここでパウロが語っていることはすべてのキリスト者に関わることです。なぜなら、信仰を持ったということは救われたということだからです。救われたということであれば、その恵みを語らずにはいられないはずです。その救いが嬉しいことであれば、黙っていることができないはずです。伝道はそこから始まります。
今日の聖書の20節にこうあります。「神がわたしたちを通して勧めておられる」。
神は何を勧めておられるのでしょうか。救いです。伝道とは神が私たちを通して人々に救いを勧めることなのです。
「勧める」と訳されている元の言葉には「慰める」という意味もあります。人々に救いを勧めて慰めるのです。その慰めは、悲しんでいる人を慰めるというような慰めではなく、もっと積極的な慰めです。すなわち生きることへの慰めです。その人が慰められるのは神を自分のもとにお呼びするからです。救いを受け入れるとキリストの霊が来てくださってその人の味方になってくださるのです。それは孤独な人生を歩まなければならなかった人にとってはまさに福音であるに違いありません。
だから、パウロは「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしている」と言います。20節です。
そして、すぐにその言葉を受けて、「キリストに代わってお願いします」と言います。
なぜ、「キリストに代わって」なのでしょうか。それはキリストが私たちに代わって十字架についてくださったからです。キリストによって私たちに救いが与えられました。だから、今度は私たちがキリストに代わって救いを人々に勧めるのです。救いを受け入れるよう熱心に願うのです。
そこで私たちが何よりも思わなければならないことはキリスト御自身がその願いを持っておられたということです。救いとは奇妙なものです。人間は、救われなければならない者なのに、救っていただきたいと願おうとしないで、人間よりも先にキリストが人々の救いをお願いになったのです。
キリストの生涯とはどういうものだったのでしょうか。それはあらゆる人々に対して願いをあらわしておられた生涯でした。罪人に、徴税人に、ファリサイ派の人々に、どの人にも、キリストはご自分の願いをもって迫ってゆかれました。
ヨハネの黙示録にもそのようなキリストの姿が書かれています。その3章の20節にこうあります。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。」
キリストが人間の心の扉を叩いているのです。それなのに、人間はその扉を開けようとしないのです。
キリストは何をお望みになっておられるのでしょうか。神との和解です。
今日の聖書の20節にこうあります。「神と和解させていただきなさい。」
「神と」とあるように、この和解は神がお立てになったものです。神は、その和解が必要であることを知って、自ら和解の道を立てられたのです。ですから、その道を受け入れるには悔い改めが必要です。神から離れ、神に背いていた自分であったことを神に告白するのです。
21節にこうあります。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。」
「罪と何の関わりもない方」というのはキリストのことです。コリントの教会の人たちはこれを読んでどう思ったでしょう。信仰が成熟している人はともかく、まだよく福音を知らない人は驚いたでしょう。「罪と何のかかわりもない方」というようなことがなぜ問題にされなければならないのかと不思議に思ったことでしょう。
なぜ、パウロは「罪と何のかかわりもない方」と言ったのでしょうか。神と和解するということ、それは神との敵対関係をやめるということです。人間は神の敵になっていたのです。それなら、罪を思うのが当然でしょう。そして、人間の罪を解決するには「罪と何のかかわりもない方」のことを思わないわけにはいかないでしょう。なぜなら、「罪と何のかかわりもない方」だけが人間の罪について何かをなさることができるからです。
キリストはどうして「罪と何のかかわりもない方」だったのでしょうか。キリストはどうして「罪と何のかかかわりもない方」であることができたのでしょうか。それはキリストが神の御子だったからです。神が人となられたお方だったからです。
では、どうして神の御子が十字架にかかられなければならなかったのでしょうか。
21節に「わたしたちのために」とあります。ここに神の和解の秘密があります。神がキリストを罪となさったのは私たち人間の罪を解決するためです。神と人間との間に和解がなかったのは人間の罪が神と人間とを引き離していたからです。その罪を処分するためには誰かが罪の責任を負わなければなりません。
人間の罪の最大の問題、それは罪の責任です。誰がその罪の責任を負うかということです。もしも人間が負うとすれば、人間はその責任に押しつぶされてしまうに違いありません。罪ある人間が自分で自分の罪を負うことはできません。ましてや他人の罪を負うことなどできるものではありません。ですから、もしそれができる方があるとすれば、罪と何のかかわりもない方です。人間の立場に立つことができて、しかも神のように罪と何のかかわりもない方です。だから、神はキリストを罪となさったのです。
それでは、そのように罪と何のかかわりもない方が罪とされたことによって何が起こったのでしょうか。
21節にこうあります。「わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」
「神の義を得ることができた」というのは、神と和解することができた、神と仲直りすることができたということです。だから、救われた私たちは心安らかに生きていくことができるのです。心配せずに、確信をもってキリストに従っていくことができるのです。神との和解は私たちが生きていくのにかけがえのない確かな立場を約束してくれるものなのです。
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