「今こそ、救いの日」

コリントの信徒への手紙二 612節 

水田 雅敏

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の6章の1節から2節です。

パウロは神から和解の福音を託されていました。それは神と仲直りしたことによって与えられたものでした。それは土の器に過ぎない者に与えられた驚くべき光栄です。

パウロは今、その生活について語ろうとしています。しかし、それは一人の伝道者が自分を語るということだけではありません。自分に託された務めを語ることによって、福音というものは何かということを明らかにしようとしているのです。

1節にこうあります。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」

「神の協力者」とありますが、これはどういう人のことでしょうか。ここで参考になるのは、この手紙の5章の14節です。パウロはそこで次のように言っています。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」

「神の協力者」とは「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているから」こそ何か神の御心に適うことをすることができる人のことです。

そのときに大切なのは、神の恵みを受けていることです。神の恵みを受けることがなければ、神の協力者になることはできませんし、神のために協力するという気持ちを持つこともできません。自分のことを第一にせず、ただひたすら神を思い、神の栄光のために生きるには、神の恵みによって救われる以外にはないのです。

パウロはそのことをはっきりさせるために、わざわざ旧約聖書の言葉を引用しています。

今日の聖書の2節にこうあります。「なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」

ここで引用されているのはイザヤ書の49章の8節です。その8節以下には驚くべき喜びが告げられています。それは、恵みの時、救いの日に、恵みを受け、救いに与ったということがどんなに大きな出来事だったか、ということを示しています。それは今読んでいる所からいえば、「神の協力者」とさせられるためにはどのような喜びがあったかということです。

イザヤ書の49章の8節以下を少し詳しく見てみたいと思います。

まず9節ですが、神は、捕らわれ人に「出でよ」と言い、闇に住む者に「身を現せ」と命じられて、その救いを成し遂げられるとイザヤは言います。

10節ですが、そのようにして解放された人は、「飢えることなく、渇くこともなく、太陽も、熱風も、彼らを打つことはありません」。

11節ですが、神は「すべての山に道をひらき 広い道を高く通され」るので、12節ですが、人々は遠くからも来るようになります。

そして最後にイザヤは13節で、「天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め その貧しい人々を憐れんでくださった」と言って、その喜びを告げるのです。

パウロは、神の協力者がこういう大きな喜びを背景にしていることを告げたくて、イザヤ書の言葉を引用したのです。

「恵みの時」というのは、私たちの時に直していえば、イエス・キリストが十字架につけられ、復活してから再臨される時までのことです。それはまさにすべての人々が救われる時です。

ですから、パウロはイザヤの預言のことを語ったあとで、ほとんど絶叫するように、こう言っています。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」パウロは、自分に与えられた神の恵みを思い、それが旧約の昔から定められていたことを考えると、こういうことがあったと言って話しをするだけでは済まないように感じたのでしょう。大声を挙げて感謝し、その感動を伝えるほかないと思ったのでしょう。

ある人が、この「恵みの時」というのは時が満ちることだと言いました。時が満ちるとは、神があらかじめ約束しておられた時が来るということです。それは、神が、永遠のはじめからお定めになって、今か今かと待っておられた時ということです。その時が満ちると、神の恵みが、せきを切ったようにいっぺんに溢れ出てくるのです。そうであれば、人は、ただ圧倒され、その中に包まれるように神の恵みを受けるしかありません。

私たちは日々、多くの恵みに囲まれて暮らしています。私たちが生きていることも死ぬことも、私たち自身の望みに任せられないことです。神の御旨によらなければ、髪の毛一本すら私たちの自由にはなりません。そういう意味で、私たちは全く神の御手の内に置かれている者です。

しかし、問題は、そのような神の恵みを知る手がかりはどこにあるかということです。神の恵みを信じる道はどこにあるのでしょうか。

それはイエス・キリストの十字架と復活にあります。イエス・キリストの十字架と復活によって自分の罪を赦されたとき、私たちは神の恵みを信じることができるようになります。イエス・キリストの十字架と復活において現された神の恵みこそは恵みの中の恵みです。しかも、それは、ただの恵みではなくて、救いです。

救いはいつでも危険が伴っているものです。なぜなら、もし救われなければ滅びるということがあるからです。そういうことからいえば、救いとは、「ああ、わたしは助かった、滅びから救い出された」ということです。ある人が救いについて次のように言っています。「時がふさわしいのに入ろうとしない者は、直ちに扉が閉まってしまうのである。」

このように考えていきますと、パウロが神の恵みと救いについて、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と言ったことがよく分かるのではないでしょうか。

私たちは、自分が、ある時、ある日に救われたと信じています。その日その時をはっきり示すことのできる人もあるでしょう。しかし、それで終わってしまったというわけではありません。もちろん、私たちは、もう救われているので、その救いについて今さら何の不安もないはずです。しかし、救われたというのは、今救われているということです。今救われつつあるというのではなくて、今この時にも救いは生きた確かなものなのです。ですから、「今救われている」と言っていいことです。

救われなければ滅びるのです。そういう滅びから救われた者からいえば、いつでも、「ああ、よかった」という今ここでの話になってくるのではないでしょうか。

そういうことからいえば、救いはいつでも、今日のことであり、今の話であり、この時間の出来事だと言わなければなりません。そうでなければ救いとは言えないと思います。

救いが今のことであるとすれば、パウロは、信仰のことを語るたびに、これを口にしないわけにはいかなかっただろうと思います。

この6章には一人の伝道者の生活が語られています。それなのに、その始めに、いつもと変わらない救いの話が出てくるのはどういうわけでしょう。それは二つの違ったことを集めたような感じがしないでもないだろうと思います。

しかし、パウロにとっては、そうではありませんでした。救いを言わなければ話は進まないのです。パウロにとって神の恵みの旗印である救いは、いつでも、どんなときでも、高く掲げられているのです。