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「神に仕える者」
コリントの信徒への手紙二 6章3~10節
水田 雅敏
前回学んだ6章の1節から2節でパウロはこう言っています。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」
パウロは偉大な伝道者でした。しかし、パウロのような人でも伝道者になったのは自分の力によるのではありません。彼を伝道者にしたのはひたすら神の恵みでした。ですから、パウロの信仰生活の目標はどうしたら自分が受けた神の恵みを無駄にしないで済むかということだったのです。
今日の聖書の箇所はこれを基にして語られています。
3節にこうあります。「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず」。
「この奉仕の務めが非難されないように」とあります。ここで注意したいのはパウロが「この自分が」とは言っていないことです。私たちの場合はいつも自分のことを気にしているのではないでしょうか。自分が非難されることが恐いのです。それに対してパウロは、「この自分が」とは言わずに、「この奉仕の務めが」と言っています。自分はどんなに非難されても構わないのです。
しかし、「この奉仕の務め」は、自分のものではなく、神がお与えになった務めです。ですから、それは何よりも大切なものです。自分がこれを汚してもなりません。またほかの人に汚させてもならないのです。
この奉仕の務めの目的は人を救うことにあります。人を救うのですから、「人に罪の機会を与え」てはなりません。
いずれにしてもこの務めは大役です。どんな人にとっても容易なことではありません。どんな覚悟もどんな用意も十分に役に立つとは思えません。ただ先ほど見たこと、神の恵みを無駄にしないということが大事です。なぜなら、この務めは神の恵みによらなければできることではないからです。
それならば、伝道者の生活とはどのような生活でしょうか。
4節にこうあります。「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。」
パウロは神に仕える者としての自分を人々に示していると言います。自分はこのように神に救われ、今は神に仕える者となっている、その姿を人々に見てもらうのです。それが伝道になるのです。
4節以下では、パウロはそれを自分の生活に則して語っています。
4節から5節にこうあります。「大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても」。
ここに語られている生活は大変厳しいものです。ここにはパウロが出会った苦しみが語られています。一つ一つの言葉の背後に、涙に満ちた生活があることを想像することができます。
「大いなる忍耐をもって」とありますが、パウロはよく忍耐について語ります。それは信仰生活とは忍耐だと考えていたからでしょう。忍耐は信仰の力を示すのです。
6節から7節の前半にこうあります。「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。」
ここには忍耐するために必要な力のすべてが語られています。忍耐が何という豊かな力によって裏付けられていることでしょう。神に仕える者の忍耐は単に辛抱することではないのです。
7節の後半から8節の前半にこうあります。「左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。」
「義の武器」とあります。「義」というのは神に認められることです。ですから、「義の武器」は信仰にとって最も力になるものです。神に仕える者はそれをいつも持っているのです。
それと共に、神に仕える者は「栄誉」と「辱め」、「悪評」と「好評」というものを同じように受けるということが分かります。
神に仕える者が栄誉や好評ばかりでなく、辱めや悪評をも受けるというのは興味深いことです。キリスト者といえば、穏やかな、おとなしい、あまり悪口を言われないような生活をする者と考えられがちです。しかし、パウロはそのような生活はしませんでした。
ここでヨハネの黙示録の3章の15節の言葉が思い出されます。そこでイエス・キリストはこう言っておられます。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。」
信仰生活は生きたものです。そうであるなら、栄誉も辱めも好評も悪評もあるのが当然です。それはその生活が神によって生かされている証拠です。
8節の後半から10節にこうあります。「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」
パウロはここで不思議な言い方をしています。
まず、神に仕える者はその見えるところにおいては少しも良いところがありません。「人を欺いているようでいて」、「人に知られていないようでいて」、「死にかかっているようで」、「罰せられているようで」、「悲しんでいるようで」、「物乞いのようで」、「無一物のようで」。もちろん、これらのことは、いつでもそうだというのではなくて、そのように人から批評されることがあるということです。いつでも誰にでもこのように見えたわけではありません。
パウロがここで何よりも言いたいのはそれ以外の所です。すなわち、「わたしたちは…誠実であり」、「人に…よく知られ」、「生きており」、「殺されてはおらず」、「常に喜び」、「多くの人を富ませ」、「すべてのものを所有しています。」これはパウロが心から確信していたことでした。しかもそれは、神に仕える伝道者がそうなら、伝道者でない一般のキリスト者についても同じことが言えるとパウロは考えていたと思います。私たちは、うわべはあまり立派でないかもしれません。しかし、信仰においてはとても豊かにされているのです。
このような信仰者の戦いと救いは旧約聖書の詩編にも書かれています。例えば、詩編の118篇です。その13節から16節にこうあります。「激しく攻められて倒れそうになったわたしを 主は助けてくださった。主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。主の右の手は高く上がり 主の右の手は御力を示す。」
神を信じる者の生活はいつでも安泰というわけではありません。信仰を持つゆえに、信仰を持たない人には分からない苦しみがあります。しかし、その歩む道はいつも神によって守られ支えられています。そのことをパウロは力強く証ししているのです。
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