「和解を求める神」 

                             コリントの信徒への手紙二 51819節 

                                                     水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の5章の18節から19節です。

パウロがよく用いる言葉の一つは「すべて」という言葉です。パウロが「すべて」という言葉をよく用いるのは、彼の口癖だったからではなく、信仰のことを表すのに必要だと考えていたからです。

信仰は、ある時、ある所でだけ起こるのではありません。どんな時でも、どんな場所でも起こります。例えば、私たちに与えられている救いです。それはすべての人が救われる救いです。どの時代の人も、どの地域の人も、同じように救われます。救いはそういう意味では絶対的なものです。それを表すのに適当な言葉の一つが「すべて」という言葉なのです。

今日の聖書の18節の始めの所にも「すべて」という言葉があります。「これらはすべて」。

では、「これら」というのは何を指しているのでしょうか。

それは、すぐ前の17節で語られている、神がイエス・キリストによってなされた新しい創造のことです。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

「新しいもの」とありますが、これは私たちがイエス・キリストによって救われているということです。私たちが何から何までイエス・キリストの恵みによって生かされているということです。

その新しい生活は人間が造り出したものではありません。パウロは18節でこう言っています。「神から出ることであって」。私たちの救いの生活は神がお始めになったことだというのです。

これはとても重要なことです。ここで語られているのは私たちの救いのことです。ですから、ある人は、それならその始めは私たち人間にあるのではないか、私たち自身が救われることを希望したから私たちは救われたのだ、と考えるかもしれません。しかし、そうではありません。私たちはこんなに大きな救いを希望したことはありません。このような恵み深い救いを願ったことはありません。救いというのは神が計画されて私たちにお与えになったものなのです。

それでは、その神はいったいどういう神なのでしょうか。

18節にこうあります。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ」。

私たちを救われた神はイエス・キリストを通して私たちを御自分と和解させてくださった神です。

和解というのは、平たく言えば、仲直りです。仲直りというのはどちらからすべきものでしょうか。それは申し訳ないことをしたと思う者のほうからすべきものです。ところが、神は、人間のように罪があるわけでもないのに、御自分のほうから人間に対して和解をお求めになりました。人間が和解を求めていないときにイエス・キリストを通してそのことをしてくださったのです。ですから、これほど確かな和解はありません。なぜなら、この和解は、人間の気まぐれによるのではなくて、神が御自分でなさったことだからです。

このことをパウロは19節でこう説明しています。「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく」。

神は新しい創造を罪ある人間において行われました。ですから、和解のときに一番重要になるのは、和解を妨げている人間の罪をどう解決するかということです。そのとき、神は、その罪の責任を人間に負わせないで、御自分で処理なさったのです。

このことについてパウロはローマの信徒への手紙の中でも説明しています。その5章の10節にこうあります。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」

「敵であったとき」とあります。これは大変厳しい言葉です。そして私たちが忘れやすい言葉です。人は自分に何らかの罪があることは知っています。けれども、罪人と言われるほどに罪に満ちているとは考えません。また罪があるといっても、自分で自分の罪は数えるようなことはしても、神に対して敵になってしまっているとまで思いません。ですから、そこに和解の福音が告げられても、それを自分のこととして捉えることがなかなかできません。罪が神と私たちとの関係を壊しているとは思いもよらないことなのです。

ローマの信徒への手紙の5章の1節には次のようなことも書いてあります。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」。

「神との間に平和を得ており」とあります。「神との間に平和を得る」ということも多くの人にとっては耳慣れない言葉でしょう。なぜなら、神との間に平和がなくなっているなどとは思いもしないことだからです。神は甘い父親のように自分を取り扱ってくださる方であって、神と自分とが敵対しているなどとは思いもよらないのです。自分の罪を知らない人、罪に対する神の痛みが分からない人には、神の和解はなかなか理解できないことなのです。

ですから、大事なのは罪を取り除くことです。その罪の責任を、神は人間に負わせないで、御自分で解決されました。それは、神だけがおできになることであり、イエス・キリストを通してのみ実現できることなのです。

今日の聖書の18節にこうあります。「神は…和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」

また19節にこうあります。「神は…和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」

神の御業は不思議です。神は、罪に問われるべき人間の罪を赦して、その人間に和解の福音を宣べ伝えさせるというのです。神は、御自分の敵として滅ぼされるべき人間をお救いになっただけでなく、その救いを告げる光栄をもお与えになったのです。私たちは神から和解の福音をゆだねられているのです。イエス・キリストの十字架と復活の救いを人々に知らせて、神と仲直りすることを勧める務めに召されているのです。

 

パウロは自分が和解の福音の使者であることを誇りとして生きていました。私たちも感謝と喜びをもってその使命を果たしていきたいと思います。