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「神から与えられる知恵」
ヤコブの手紙3章13~16節
水田 雅敏
今日の聖書の箇所はヤコブの手紙の3章の13節から16節です。
12節までの所で言葉の問題について私たちは学んできました。神を賛美し、人を生かす言葉の語り手になるようにとヤコブは勧めたのですが、それに続いて、主題は知恵の問題に移ります。
13節の前半にこうあります。「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。」
これは知恵のある人を探しているのではなくて、正しい知恵を持つ人であってほしいという要望です。
それではここで語られている「知恵」とは何でしょうか。それは学問的なことや技術的な面での知恵ではありません。また、人生の経験から生まれてくる処世術的な知恵でもありません。それらの知恵はその量の多さによって人を誇らせたり、また権威づけたりすることもある性格のものであって、用い方を誤るとき大きな弊害をもたらすものとなります。ここで言われている「知恵」とは、そういう種類のものではなくて、神から与えられる知恵、神から送られてくる知恵です。そのような知恵を自分のものとして身につけてほしいとヤコブは願っているのです。
それでは、そのような神からの知恵を身につけているとか、与えられているということを、私たちはどのようにして判断することができるのでしょうか。それをどのようにして知ることができるのでしょうか。それはその人の生き方によって明らかにされるとヤコブはいいます。
13節の後半にこうあります。「その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。」
わたしたちの表に表れてくる生き方によって、一人一人がその内側に持っている知恵がどういうものであるのか、その知恵の性格や質や由来が分かるとヤコブはいいます。
そして、神から与えられる知恵によって生かされている人の特徴を「柔和」という言葉で言い表しています。神から送られた知恵を受けた人の生き方の一つのしるしは柔和さだというのです。
それでは、この「柔和」というのはどういうことなのでしょうか。聖書において「柔和」とはどういうことを意味しているのでしょうか。
「柔和」という言葉を聞いて私たちがすぐに思い起こすのはイエス・キリストの山上の説教でしょう。マタイによる福音書の5章の5節でイエス・キリストは次のように言っておられます。「柔和な人は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」
「地を受け継ぐ」というのは神の祝福を受けるということです。
私たちはまた、「柔和」という言葉がイエス・キリストによってご自身に用いられているのを見出すことができます。マタイによる福音書の11章28節から29節でイエス・キリストは次のように語っておられます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」
イエス・キリストはご自身をそのように柔和な者として語っておられます。
このように、聖書の中で「柔和」という言葉が表れる代表的な個所を見ますと、柔和な人は祝福を受ける、イエス・キリストは柔和なお方であると語られています。
さらにもう少し別の面から考えてみますと、この「柔和」という言葉は新約聖書の本文のギリシア語においては家畜にも用いられています。例えば、主人によく飼い慣らされて、主人の命令や指示通りに動く従順な馬や羊を追う牧羊犬といった家畜に対して、その性質を表すものとして、「柔和」という言葉が用いられています。つまり、主人に対して従順であり、主人の命令を意思を持って行う在り方、それが「柔和」という言葉の意味することです。
究極的には神に対してどのような姿勢を取るかということがこれに関わってきます。神への信頼に立って神の意志を行おうとする生き方、神の御心が何であるかを知ってそれを実行しようとする生き方、それが「柔和」といわれることの内容です。
この「柔和」を通して私たちは神の私たち人間に対する愛と慈しみを明らかにしていくことができます。どこに自分の拠り所を置いているのかをそれによって明らかにしていくことができます。
それではこの「柔和」は他者に対してはどういう表れ方をするのでしょうか。柔和な人は、神の御心に沿わない悪の中にある人に対しては正当な怒りと、また悲しみを持ちながら、その人の中に癒されなければならないものを見出して、その癒しのために祈り、行動することができます。その人の中に回復されなければならないものがあることを見出して、その回復のために祈り続けることができます。諦めることなくその人との関わりを持ち続けることができます。それが「柔和」の表れ方の一つでしょう。神から与えられた知恵を持つ人にはそのような柔和な生き方が可能となるのです。そのような知恵を神から送られて、人々の回復のために仕えてほしい、それがこの手紙を書いたヤコブの願いなのです。
しかし、残念なことにヤコブの手紙の受取人の教会の人々はこの柔和な生き方を身につけていませんでした。それだけでなく、ねたみ深く、利己的であり、自慢と嘘の多い生き方をしていました。14節から16節にこうあります。「しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。」
ヤコブの手紙の受取人の教会の人々はどうしてこのような生き方をするようになったのでしょうか。それは神から与えられたものではない知恵によって生きようとしていたからです。
この神から与えられたものではない知恵の性格を、ヤコブは三つの言葉を重ねて語っています。15節の「地上のもの、この世のもの、悪魔から出たもの」というのがそれです。そして、その知恵が人の生き方として表されるときの姿が16節に描かれています。
まず「ねたみ」ですが、これは自分と他者との比較をすることから生まれてきます。他人と比べて自分のほうがまさっていないことが分かったときに生まれてくる思いです。それがやがて敵愾心や競争心となって表れてくることもあるでしょう。地上の知恵はそのような生き方を人々に起こしてしまいます。神の前にあっては他者と自分を比べる必要はないという、神から与えられる知恵に欠けていることが、ねたみを生み出すことに結びついてしまうのです。
次に「利己心」ですが、これは共に生きる他者が視野に入らないだけでなく、他者が視野に入ったとしても、それを自分の栄誉や自慢や虚栄のために利用してしまう生き方のことです。そこでは他者を低めて、自分を高めることだけに他者が利用されます。神の前にあって、他者の存在は共に生きていくべきものとして神が与えてくださったものだとの知恵がそこには欠けています。これも神から与えられる知恵を求めないことから出て来る生き方の一つです。
そしてもう一つ、「混乱やあらゆる悪い行い」が生まれてくることも語られています。神から与えられる知恵はイエス・キリストの福音の中に表されています。イエス・キリストの福音は壊された関係を回復し、分裂したものを一つにし、対立し合うものを和解へと向かわせる力を持っています。この知恵を欠くとき、混乱やあらゆる悪い行いが生み出される動きしか私たちにはできなくなります。
このような地上の知恵、この世の知恵、悪魔の知恵によって教会は動かされてはならないとヤコブはいうのです。
最後にコリントの信徒への第一の手紙の2章の14節の言葉に注目しましょう。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」
「自然の人」とは神の霊に属する事柄を受け入れない人のことです。「自然の人」は神の霊の助けを求めようとしないことにその本質があるということです。
地上の知恵を超えたもの、それは神から来ます。そしてそれは聖霊の助けを乞い求めることによってはじめて私たちのものとなります。それは「自然の人」が持つのと異なる人間理解を可能にするものを持っています。
神から与えられる知恵は他者に対する理解をも新しくします。それは神の愛が自分を存在させ、神の赦しが自分を生かしているのと同じように、他者もまた神の愛と赦しの中で存在し生かされることを悟らせます。そのことが分かるときに「柔和」が私たちの中に生まれてきます。神への信仰に立ちつつ、他者の回復を願って、祈りと、また仕えていこうとする心がそこから生まれてくるのです。
それゆえ、私たちはこぞって、この聖霊を求める祈りに集中しなければなりません。地上の知恵ではなくて、神から与えられる知恵によって、他者に仕えていくことを求めていかなければなりません。そうすることができるときに、私たちは自分自身だけでなく、この世界をも神から与えられる知恵をもって造り上げていくことができるでしょう。そのようにして造り上げられていく柔和な世界こそ私たちの目指すべき世界です。
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