「神への信頼」

                       ヤコブの手紙413節 

                                                水田 雅敏

 

神がイエス・キリストにおいて成し遂げてくださった大きな事柄の一つは神と人との関係の回復です。これによって人が平和のうちに生きる道が開かれました。そして、このことは、神のみを見つめて生きていけばよいという方向が定められただけでなく、他者との間にも同じ神に向かっての歩みを共に為そうとすることが生まれてくる根拠にもなりました。

しかし、そのように神が大いなる恵みを与え、そして、世界を包む平和の礎を私たち人間のために築き上げてくださったにもかかわらず、人間の現実の有様は神からの平和がないかのような状態でした。そこに今日の聖書の4章の1節の前半でヤコブが「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか」という問いかけをせざるを得ない事情がありました。

「戦いや争い」とあります。これはその具体的な例を説明する必要がないほどに私たちはそれぞれの実例を知っていますし、個人的にも心当たりがあると言ってよいほどのことです。しかし、それは社会一般のことだけに留まらないで、キリスト者の共同体である教会においても事情は同じだったことを認めざるを得ません。二千年の教会の歴史の中で戦いや争いが繰り返し為され、それによって教会は分裂を重ねてきました。ヤコブが今、問題にしているのは、私たちから遠い世界のことではなくて、私たち自身が実際に引き起こしている事柄を取り上げて、なぜ教会において戦いや争いが止まないのか、何がその原因なのか、共に考えようではないかと訴えているのです。

その際、ヤコブは「何が原因で」と問うています。しかし、これは何も分からないままに問うているのではなくて、その原因や、また、それがどこから生まれてくるのかについて、彼はよく知っているのです。1節の後半にこうあります。「あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」

ヤコブは「欲望」こそが戦いや争いの最大の原因だと指摘しています。欲望というのは端的に言えば何かを自分のものとしたがることです。その欲望を満たすために他者との間に戦いや争いが生まれます。戦いや争いをもってしても自分の欲望を果たそうとする荒々しい生き方がそこから生まれてきます。そして、それがぶつかり合うときに分裂が生まれます。

それは「人を殺します」と2節の前半に語られています。「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。」

これは実際の殺人というよりも、他者の存在を否定したり、それを拒絶したりしてしまうことです。そういう行為が「人を殺す」という言葉で言い表されているのです。

このように教会は神の大きな恵みである平和や和解とは逆の方向へ傾いてしまうことがあります。そのような危険を教会はいつも抱えています。人間の中にあるこのどうしようもない愚かしさ、恐ろしさについて、私たちは鈍感であってはなりません。人間にはこのような面があるということをよく知らなければなりません。

しかしまた同時に、人間は神の愛の対象とされ、神の働きかけによって神との関係の回復を与えられています。人間は神の前にあって尊い存在として扱われている者でもあります。これもまた見失ってはならない人間を見るまなざしです。人間は神にとってはいとおしい存在として扱われているのです。人間の尊厳を考えるこのような視点も私たちは失ってはなりません。

そうであるならば、欲望に振り回されている私たちがそれに何とか屈しないようにするためには、この私を尊いものとして取り扱ってくださる神に常に向き合おうとしなければなりません。神との関係の中で人間の事柄を考えていくことをしなければなりません。

2節の後半から3節にこうあります。「また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」

ここで語られていることを一言で言うならば、何か欲しいものがあるなら、まず神に祈り求めなさいということです。自分の内に何かを自分のものにしたいという欲望があることを知ったなら、他者と争ってそれを獲得しようとするのではなくて、まず神に祈り求めなさいというのです。

しかし、そこで注意しなければならないのは神に祈り求めることによってすべてが必ず与えられるとは語られていないことです。何かを手にしたいと考えることがあれば、人と争い、人からそれを奪おうとするのではなくて、神にまず求めることをしなさいと語るヤコブは、それがその通り自分のものとならないこともあることを知っていました。

3節に「願い求めても、与えられないのは」とあるように、神に祈り願っても欲しているものが手に入らないことがあります。いや、私たちの祈りの実感ではそちらの方が遥かに多いのではないでしょうか。どれほど祈り求めたことか、どれほどそれを求めても与えられなかったことか、祈り求めても願い求めてもそれが手に入らなかったことのほうが多かった、それが私たちの祈りを通しての実感です。それはなぜなのでしょうか。

3節に「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」とあります。つまり、神に向かっての願い求めであっても、間違った動機での祈り求めであるなら、そこで求めているものが与えられないという形で、神がその祈りにお応えになることもあるのです。自分の欲求、自分を満たすための願い、それには神はお応えにならない、いや、求めているものを与えないという形で、神はお応えになるということです。

神をさえ自分の欲望や願いが叶えられるための手段と考えて祈ることがあります。神を自分の欲望の奴隷のように考えて、この通りにせよ、そうでなければ、あなたを信じることはもうしない、こういう思いをもって自分の欲望を満たすために神に向かうことがあります。それは「間違った動機で」神に願い求めているのだとヤコブはいうのです。

それでは、私たちはどのように神に祈り求めるべきなのでしょうか。マタイによる福音書の77節でイエス・キリストは次のように言っておられます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」

「求めなさい。そうすれば、与えられる。」利己的な思いではなく、自分が真実に人間として生きていこうとするときに神に求めるほかない、神から与えられるほかないと考えてそのことを求めるならば、それは必ず与えられる。

「探しなさい。そうすれば、見つかる。」真に人間としてふさわしい生き方をするために、必要なものを自分が失っていると考えて、それを神に向かって探し求めるならば、神はそれを見出すようにしてくださる。

「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」自分が今いる場所は本来あるべき場所ではない、だから、本来あるべき場所へ戻ろうと願って神の心を叩くならば、必ずそれは開かれて新しい本来の場所に移される。

そういう約束をイエス・キリストはしてくださっています。

それは、これだけ自分は祈っているのだからという自分の祈りへの信仰ではなくて、祈りを献げる対象である神への信仰に立つ祈りであり、神にすべてを任せる姿です。

そのような祈り願いに神は応えてくださるでしょう。そして、たとえそのとき与えられないということがあっても、神にすべてを委ねることができる人は、与えられないことが神の御心だと受け止めて、さらに御心を問う生き方がそこから生まれてくるでしょう。それを一人一人が為すことができるならば、戦いや争いはそこから場を失っていく、これがヤコブの教えです。

たとえ私たちの願い求めることが神によって拒まれても、つまり、願い求めているものがそのままの形では与えられなくても、祈りへの信仰ではなくて、神への信仰に立って祈る人は、それにもかかわらず、神は自分に対して憐れみ深くあってくださることを疑わない生き方を続けることができるのです。

このような祈りが一人一人において為される教会であるならば、その群れの霊性は深められ、それによって、欲望に突き動かされた人と人との戦いや争いはその場を失い、それに代わって神の平和がその群れを包むだろうとヤコブは語っています。

一人一人がそのようにして神に向かい、神に近づくならば、一人一人が神にすべてを委ねることができるならば、お互いもまた近づくことができるし、お互いもまた神に委ねる信頼のもとで新しい結びつきを造り上げることができるのです。一人一人が神と向き合うことが強められ、神と向き合うことがより誠実なものとなっていくとき、そのような人々が造り上げる交わりの中で、戦いや争いはやがてその場を失っていくでしょう。

 

神がイエス・キリストを通して造り出してくださった平和と和解を台無しにしてしまいそうな私たちに、神は祈りという手段を与えてくださっています。これを最大限に用いるとき、神の恵みは確実に私たちの教会を包み、それによって私たち一人一人も平和を実現する者としての自らを造り上げていくことができる者とされるでしょう。私たちはここに語られている厳しいヤコブの言葉から、その奥にある希望と約束をより積極的に受け止めることが許されているのです。