「神の友」

                       ヤコブの手紙446節 

                                               水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヤコブの手紙の4章の4節から6節です。この箇所でヤコブは神がお喜びになる生き方とはどういうことであるのかを示しています。

ところで、既に学びました2章の23節に次のように書かれています。「『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」

イスラエルの民から信仰の父と慕われたアブラハムは「神の友」と呼ばれました。

私たちは自分が尊敬している人から「この人は私の友です」とか「あなたは私の友です」などと呼ばれますと、大きな喜びが生まれてくるのを経験します。ましてや神から「あなたはわたしの友だ」と呼ばれるようなことがあるとすれば、そのときの光栄や幸いはどれほどのものでしょうか。

イエス・キリストも弟子たちに向かって「友」という言葉をお用いになりました。ヨハネによる福音書の15章の14節にこうあります。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」

私たちは神から「友」と呼ばれ、イエス・キリストから「わたしの友」と呼ばれる招きを受けている者たちです。そういう幸いな立場に立って生きることへと召されている者たちです。

しかし、他方では、「神の友」ではなくて「世の友」と呼ばれる人たちもいます。今日の聖書の4章の4節にこうあります。「神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。」

ヤコブは、世の友となることは神の敵となることだと言っています。

では、ここで言われている「世」とは何なのでしょうか。

聖書の中で「世」というものがどのように取り扱われているかを見てみますと、二つの面があることが分かります。

一つは、神の愛の対象としての世という面です。例えばヨハネによる福音書の3章の16節にこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」

ここで言われている「世」というのは昔も今も神が愛してやまない人間のことです。イエス・キリストを通して御自身との関係の回復に御心をお用いになる神の慈しみの相手としての人間、それが「世」という言葉で言い表されています。

しかし、そういうように肯定的に神の愛の対象として語られるだけでなく、「世」という言葉にはもう一つの面があります。それは極めて否定的に、あるいは警戒的に取り上げられている「世」です。例えばヨハネの第一の手紙の2章の15節から17節にこうあります。「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」

この言葉が示しているように、聖書には神が退けることをお求めになる「世」というものがあります。

もちろんこれは私たちが世の人々を愛したり、その人々のために仕え働くことを禁止しているのではありません。そうではなく、神から出てくるものではないものが中心となって動いている世界、イエス・キリストにおいて御自身を現された神を閉め出し、神と敵対する悪しき力に支配されている場所、そういう人間の集団、それが「世」という言葉で言い表されているのです。

その世界では様々な「欲」があり「おごり」があります。競争や戦いが盛んに為されています。それはそれらを通して人々が自分を高めることを常に目指していこうとする世界です。

「世の友となる」ということは、このような世界の原理を自分の生きる原理とし、その価値観や判断に自分を委ねることです。そして、そのことによって人は神の敵として生きる生き方を自らのものとしてしまいます。ヤコブはそのような生き方の中に陥っている人々に向かって、「神に背いた人たち」と呼びかけているのです。

私たちには常にこの二つ世というものの中での緊張関係というものが存在します。神の愛の対象とされ、イエス・キリストを通して神のものとされた一人として神の愛や赦しや慈しみを感謝しながら生きていく、そのことに喜びをもって生きていく、そういう自分でありたいと願いつつ、祈り、聖書を読み、また御名を讃える、そのように生きようとする自分が一方にあります。逆に、神の愛や赦しや慈しみなど少しも心にかけずに自分が大きくされることを原理としている、もう一つの世に属する自分というものがあります。

この二つの間に絶えることのない緊張関係や戦いや葛藤が生まれる、それが生身の私たちの姿ではないでしょうか。神の友としての道を選び取って生きていくのか、それとも世の友となることのほうを選んでいくのか、私たちは地上に生きている限りそのような決断や選択の場面にしばしば直面させられるのです。

では、世の友、神の敵となって神を悲しませるのではなくて、神が「わたしの友」と呼んでくださる光栄に満ちた生き方を続けていくためにはどうしたらよいのでしょうか。絶えることのない緊張関係や戦いや葛藤の中で、この世に引きずられるのではない生き方を歩むにはどうすればよいのでしょうか。

5節から6節の前半にこうあります。「それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。『神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。』」

ヤコブは「聖書に次のように書かれている」と言って、神に背いている人々のまなざしをこの世ではなく神へと向けさせようとしています。

「聖書に次のように書かれている」というのは、ここでは5節の後半から6節の前半にかけて鍵括弧で引用されている部分のことですが、実はこの言葉は聖書のどこを見てもこれに該当する箇所が見当たりません。しかし、全体としては聖書が語ろうとしていることに則しています。

「神はわたしたちの内に住まわせた霊を」とありますが、これは、創世記の2章の7節に書かれている、神が人に吹き入れてくださった命の霊のことでしょう。神は人の中に神と応答できる部分を備えてくださった、御自身の霊と応答することができる霊を送ってくださったのです。

その霊を、神はねたむほどに深く愛しておられるとヤコブはいいます。神は今もなお一人一人の人間に対して深い愛を注いでおられる、だれ一人としてこの神の御もとから離れていくことを神はよしとなさらない、そういう燃えるような神の愛が今もなお私たちに注がれているということです。

その神の愛に触れるならば、その神の愛に打たれるならば、人はこの世の賞賛や栄誉などから遠ざかることができる、逆にこの世の非難や冷酷さにも耐えることができる、この世的な満足の道から離れてイエス・キリストが歩まれたあの道を自分も歩もうと自らの生き方を正すことができるというのです。

引用されているもう一つの言葉に注目しましょう。6節の後半にこうあります。「それで、こう書かれています。『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。』」

これは箴言の3章の34節の言葉です。

「高慢な者」とありますが、これが「神の敵」と呼ばれています。そうであれば、「高慢な者」というのは神に頼ることをよしとせずに、この世の価値観に自分を委ね、自分の人生を自分で支配できるものと思い込んで生きている者ということになります。そこでは、神はその人によって退けられています。神が退けられるとき、その人に用意されている神の豊かな愛も赦しも慈しみも、その人は失ってしまいます。

一方、「謙遜な者」というのは神を常に大いなるお方とし、自分をその前で小さくすることができる者のことです。私は神によって造られた者であること、不完全さを備えている者であること、あらゆるときに、あらゆる事柄において、最後には神に自分を明け渡すことができる者、それが「謙遜な者」です。高慢な者は、最後は自分の考えで動きますが、そうではなくて、最後は神に委ねることができる者、それが「謙遜な者」です。

「謙遜な者」とは自分自身を神に委ねるときに神が自分のために必ず何事かを用意していてくださることを知っている者のことです。諦めや投げやりや卑屈な意味で自分を低くするのではなくて、積極的に神に望みを託し、神からのみすべてを期待することができる者、神から受け取る用意のある者、それが「謙遜な者」です。

願っても神は応えてくださらない、求めても与えてくださらない、だから何事も自分でやる、これは強そうでいても、もろい生き方です。しかし、どんなに困難な状況の中にあっても、どんなに追い詰められた中にあったとしても、神に委ねるとき、神はその人にふさわしいものを用意して待っていてくださることを信じることができる者、それが「謙遜な者」です。そして、「謙遜な者」には、神は恵みをお与えになります。恵みを用意してくださっています。私たちはそのような恵みで満たされるために造られているのです。

自分が自分を知っている以上に神が自分のことをもっとよく知っていてくださる、自分が自分について心を痛め、嘆く以上に、神が私のことで心を痛め嘆いてくださる、このことを信じることが信仰の謙遜です。

 

自らをイエス・キリストにおいて低められた神は神の前に低くなって神にすべてを委ねる者の友でいてくださいます。私たちは神の友として招かれていることの幸いを今日改めて覚えたいと思います。