「隣人を裁くな」

                       ヤコブの手紙41112節 

                                               水田 雅敏

 

新約聖書の中には悪徳表と呼ばれるものが幾つか記されています。悪徳表というのは、イエス・キリストによって新たにされた人間としてこうあってはいけないと思われるものとか、避けるべき行いなどがまとめて書かれているものです。

例えばその一つとしてペトロの第一の手紙の2章の1節に次のようにあります。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って…」。

新約聖書にはなぜこのような悪徳表が書かれているのでしょうか。

それは、一つには、神のものとされた人間が闇の子ではなくて光の子としていかに生きるべきかということを考えるときに、そのようなことが禁じられているのは当然だという受け止め方をすることができます。キリスト者の生き方を考えるときに、そのようなことから自分自身を遠ざけるべきだということを心がけていなければならないということです。

けれども、悪徳表が個人に向けられているだけでなく、それぞれの教会に宛てて書かれた手紙の中に記されているということを考えるときに、これは単なる個人的な問題に留まらないで、教会という信仰共同体の在り方に関わることとして、このことが考えられているのだという点を、私たちは見落としてはならないでしょう。教会の秩序や一致を保つためにこれらの行いを避けなければならないというのが教会宛ての手紙に悪徳表を記している目的なのです。

神の国の一員としての約束を受けた人たちによって成り立っている教会が救いの喜びと希望を証ししていくために、あるいは神から託された使命を果たしていくために、内側で乱れ対立していてはその務めを果たすことにはなりません。悪徳表はその点からの指摘がなされているのです。別の言葉で言うならば、神が侮られないために、イエス・キリストによる救いがそしりを受けないために、教会が常に平和と喜びに満ちたものでなければならない、そのことを願って様々な悪を避けることが命じられているのです。

そのように考えていきますと、私たちは今日、ヤコブから学ぶ事柄を些細なこと、このようなことは当たり前だというように簡単に受け流すことはできないと思います。また他人事として考えてはならないと思います。

今日の聖書の箇所でヤコブが勧めていることは一言で言えば、悪口を言い合ってはならない、兄弟を裁いてはならないということです。

では、この問題をヤコブはどういう文の流れの中で取り上げているのでしょうか。

先にヤコブは高慢な者と謙遜な者とについて語りました。4章の6節にこうあります。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」

ですから、高慢な者の一つの代表的な表れが兄弟への悪口と裁きだという関連の中で、このことが取り上げられていることが分かります。

ヤコブは兄弟の悪口を言ったり裁いたりすることを、まず律法との関係で述べています。4章の11節にこうあります。「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。」

ではこの場合どのような律法が考えられているのでしょうか。

ヤコブは今、兄弟に対する言葉の問題を取り扱っていますから、おそらく次のような律法を頭に思い描いていたのではないかと思います。

その一つは旧約聖書のレビ記の19章の16節です。「民の間で中傷したり、隣人の生命に関わる偽証をしてはならない。わたしは主である。」

また同じ19章の18節にこうあります。「民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」

ヤコブは、教会の中で兄弟に対して悪口を言ったり裁いたりすることはこれらの律法に違反し、それを無視し、そして何よりも律法に込められている神の御心を踏みにじることになるのだと考えていたのでしょう。人を傷つけるだけでなく、神の御心を痛めることになるのだ、そういう思いで、悪口を言い合ってはならない、兄弟を裁いてはならないといっているのです。

さらに新約聖書に目を向けるときに、私たちはイエス・キリストの言葉を思い起こします。イエス・キリストは「新しい掟」という言葉で次のように命じておられます。ヨハネによる福音書の13章の34節にこうあります。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

「新しい掟」、それは互いに愛し合うことです。それは別の言葉で言えば互いに生かし合うことです。言葉の面から言うならば、悪口と裁きの言葉を語るのではなく、赦しと励ましと希望の言葉を語り合うということです。

私たちはイエス・キリストが恵み深い方であられることを日々味わっています。このイエス・キリストの恵みの中で一人一人が生かされていることを知るときに、イエス・キリストの恵みを無駄にしてはいけない、神を悲しませてはいけないという思いを強くさせられるのではないでしょうか。そういう思いを私たちは失ってはなりません。神を愛するということ、またイエス・キリストの恵みを大切にするということは人を愛することと同じであり、人を重んじることと同じです。この基本的な聖書の教えを私たちは繰り返し思い起こし、そこに立ち帰りたいと思います

ヤコブはさらに12節で次のように言っています。「律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。」

人がいかに生きるかを示す律法を定める方は神のみです。人を救うことも滅ぼすこともできる方は神お一人以外にはおられません。それを忘れて、自分を中心にほかの人を見、裁く、「あなたは、いったい何者なのですか」という鋭い問いをヤコブは投げかけています。

この「あなたは、いったい何者なのですか」という言葉を聞くときに、私たちは同じように問いかけているパウロの言葉を思い起こします。ローマの信徒への手紙の14章の4節でパウロは次のように言っています。「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。」

ある召し使いが何かの弱さを抱えているときに、その召し使いの主人を差し置いて、別の者がその主人の頭越しに召し使いを裁くということがあり得るだろうか、そんなことを平気で行うとすれば、その人はいったい何者ですかとパウロはいっています。

一人一人の主人は神であられます。その神が一人一人を赦し、愛し、生かしておられます。また御自身の御用に用いようとしておられます。それにもかかわらず、その神を超えて人の存在を否定するような悪口と裁きの言葉を語るということは自分をその人の主人の位置に置くにも等しいことになります。

パウロは「召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです」と言っています。ヤコブは「この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです」と言っています。この二つの言葉は同じ内容を持っています。神はすべての人の弱さも不信仰も赦してもらわなければならない様々な事柄も誰よりもよく御存じの方です。私たちが隣人のためにできることはこの神を超えて人の生き方を指図することではありません。愛を込めて忠告したり、何かを相手に伝えることはあるでしょう。しかし、最終的に私たちに為すことができることは一人一人の主人であられる神に祈ることです。その人のために祈ることです。その人を神に委ねることです。

「主は、その人を立たせることがおできになる」とパウロは言っています。神はその人をもう一度、立たせることがおできになります。その神に、真にその人にふさわしい生き方を創り出してくださる神に、私たちは最終的には委ねなければなりません。この信頼を持つ人が「謙遜な者」なのです。

最後にコロサイの信徒への手紙の3章の16節の言葉を読みます。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」

 

神が一人一人に向けておられる赦しと愛のまなざし、それと同じまなざしが私たちにも向けられていることを覚えるときに、私たちの口から出るのは感謝と賛美の言葉、そして共に生きようとする励ましの言葉であるはずです。そのような言葉に満ち溢れる教会を私たちは共に造り上げていきたいと思います。