「人がなすべき善」

                                                 ヤコブの手紙41317節 

                                                                                                     水田 雅敏

 

聖書は人間の未来や死についてどのように教えているのでしょうか。聖書が明らかに告げていることの一つは、人間はやがて死んでいく存在だということです。人の命のはかなさというものが聖書の教えを貫いています。

今日の聖書の13節から14節でヤコブも次のように言っています。「よく聞きなさい。『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。」

ヤコブはここで、ある人たちのことを例として挙げています。それは商売をする人たちのことです。この人たちは計画を立てて金儲けをしようとしています。将来の構想を描いて新しい土地で歩き出そうとしています。しかし、もしそこで一つ大事なことが抜け落ちているならば、それは大きな危険性をはらむことになるとヤコブは警告します。それは人間の計画や判断が将来を保証し得るという考えに対しての警告です。自分の知恵に基づいて計画通りに事柄は進んで行くという思い込みを、ヤコブは今、商売人たちを通して描き出し、あなたがたは最も大切なことに思いが及んでいないということを教えようとしているのです。

なぜ、ヤコブはこのようなことを語るのでしょうか。私たちはこの4章に入ってヤコブが謙遜と高慢について繰り返し語っていることを学んできました。神は謙遜を喜ばれ、高慢を嫌われるということをヤコブは明らかにしてきました。ですから、明日、自分の命がどうなるかをわきまえないというのは高慢の一つの表れであることを、ヤコブはここで気づかせようとしていると考えることができます。今日の聖書の16節に、そういう人たちは「誇り高ぶっています」という言葉が記されていることからも、このことが高慢についての教えだということが分かります。

それではここで問題とされている人たちには何が足りないのでしょうか。この人たちは、人間が自分の人生、自分の存在、自分の命といったすべてのことの主人となっていること、自分が自分の主人となってそれによってすべての事柄が運ばれると考えています。自分の現在も将来も自分の力で支配し制御できるという考えがこの人たちの生き方の根底にあります。つまり、彼らは命の壊れやすさというものを真剣に考えていないのです。14節で、命が「わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎない」と言われているように、命が不確実であること、将来何が起こるか分からないということを認めていない者たちの愚かしさ、高慢さを、ヤコブは悟らせたいのです。

このようなことを聞いて、ある人は次のように考えるかもしれません。「そんな、いつ死ぬか分からないということをまともに考えていては何もできないではないか。ただやれることを精一杯やるということでいいのではないか。死なんて考える必要はない。」そのように主張する人もあるかもしれません。

確かに当たっている面もあります。しかし、ヤコブは生きることに一生懸命に取り組むことを否定しているのではなくて、人の命、人の存在の真の主人は誰であるのかということの正しい認識を持たずに事に当たること、その認識を持たずに生きていくことの虚しさを覚えてほしいと訴えているのです。自分の命、自分の存在の主人は自分自身ではなくて、自分を超えたお方、自分を造られたお方、そのお方が私の主人だと認めること、それは人には不可欠なことです。つまり、神こそが私の主人だとの信仰に立って日々を送ること、それをヤコブは求めているのです。

この主なる神への信仰があるとき、私たちの生き方は変わってきます。自分の人生や存在や命に対して謙遜な者とされるでしょうし、そしてそれは違った意味での大胆さを私たちに与えることにもなってくるでしょう。人の命は人の手に握られているのではなく、主なる神の御手に握られているのです。

人は活動に没頭しているさ中で、突然、神に召されることもあります。そのようなことを私たちは知っているはずなのですが、しばしばそれを忘れて、いつまでも命は続くものと思ったり、自分で自分の将来を決めることができると自己過信に陥ってしまうことがあるのです。明日のことは誰も正確に予知することはできません。ただ一つ確実なのは、遅かれ早かれ人は必ず死ぬということです。人は、様々な面において異なっていても、この必ず死ぬという事実においてはまったく等しいのです。

すべての人の上に死の陰が覆っています。そしてそれはいつか陰ではなくて事実となります。現実の出来事となる時が来ます。私たちの生は、そういういつ死ぬか分からない不確実性と、必ず死ぬという確実性との両面を兼ね備えています。それを忘れるところにヤコブがいうところの高慢が生まれてくるのです。またその不確実性と確実性、それを一つにできないゆえに、投げやりな生き方、絶望に捕らわれた生き方に陥ってしまうこともあります。

そのような私たちにヤコブは限りのある命をもって生きる者としての生き方を示しています。15節にこうあります。「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」

これはいい加減な物の考え方なのではなくて、究極的に人の命の長さも事の成り行きも神がお決めになるのだという主なる神への信頼の中で生きる姿勢を示しているものです。逃避的になったり、消極的になったり、他人任せの無責任な生き方でないものがここに示されています。人間として為すべき最大の努力、最善、誠実の限りを尽くす、しかしそれですべてが決まるのではなくて、最終的には神の御手が導いてくださるのだから神の御心に委ねる信仰、それが「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」という言葉に込められている内容です。私の生き方、私の考え方、私の見通しに過ちがあるならば、それも神が正してくださる、人間的に見て失敗と映ることがあったとしても、神がそれをなさるのならば、それは神の御心だと受け止めよう、そういう在り方がここに語られています。

旧約聖書の箴言の16章の9節に次のようにあります。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」

この二つの文の間には「しかし」という言葉が入っていませんが、「しかし」を入れて読むほうが分かりやすいかもしれません。「人間の心は自分の道を計画する。しかし、主が一歩一歩を備えてくださる。」

同じ箴言の19章の21節に次のようにあります。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」

これも「しかし」を入れて読んでみましょう。「人の心には多くの計らいがある。しかし、主の御旨のみが実現する。」

このような信仰による人生の受け止め方は人の行動を制限することはありません。逆に人の行動を基礎づけ、方向づけ、祈りつつ精一杯に為す姿勢を生み出します。そしてそのようにして為した事柄の結果がどのようなものであっても、それを受け止める力がその信仰から生まれてきます。なぜなら、その根底には自分の計画が実現するよりも主なる神の御心が成ることこそが最も良いことだという謙虚な姿勢があるからです。

それでは神の御心とは何なのでしょうか。様々な言葉で語ることができると思いますが、ヨハネによる福音書の6章の40節の言葉から神の御心とは何なのかを見てみたいと思います。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

神の御心は、たとえ地上でどのようなことがわたしたちの身に起こることがあるとしても、子を見て信じる者が皆、永遠の命を得ることなのだ、地上でいかなる苦しみ艱難があったとしても、その人が永遠の命を得ることこそが神の御心なのだとイエス・キリストは語ってくださっています。

私たちの上には死の陰が覆っているということを先ほど言いました。そしてその陰は事実になる、やがて現実の出来事になるということを言いました。しかし今、イエス・キリストの言葉を聞くときに、私たちの上を覆っているのは死の陰だけではない、それ以上に復活の命の光が強く私たちの上に降り注いでいる、そしてこれもまた出来事として私たちに起こるということを知ることができるのです。生きている時も死ぬ時も主なる神の御手の中にある私たちです。それと同じように、いや、それ以上に、死を通して新しい命に招かれることも神の御手の中にあるのです。

このことを確信することができるとき、私たちはイエス・キリストのあの言葉を素直に受け入れることができる者とされます。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。…明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。」

このイエス・キリストの慰めに満ちた言葉を素直に受け入れることができるときに、私たちには平安があります。

 

そういう生き方が今日の聖書の17節で「人がなすべき善」といわれているものです。あなたは力を尽くして誠実に生きていきなさい、その上ですべてを主に委ねなさい、今日の聖書のヤコブの勧めの中心はそのことにあります。あなたは力を尽くして誠実に生きていきなさい、その上ですべてを主に委ねなさい、これは困難な戒めではありません。恵みと慰めに満ちた神の招きの言葉です。私たちはこのように語ってくださる神が私たち一人一人の神であることの幸いを深く噛み締めたいと思います。