「神に近づきなさい」

                       ヤコブの手紙4710節 

                                              水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヤコブの手紙の4章の7節から10節です。

前回私たちは4章の6節の所で謙遜な者への神の恵みについて学びました。心から信頼して神に自分を委ね、また神を求める者に対して、神は用意なさっているものを豊かに与えてくださいます。それが謙遜な者への神の恵みでした。

そして、それは今日の聖書において別の言葉で表現されています。4章の10節にこうあります。「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」

「へりくだりなさい」とあります。これは単なる心の持ちようや心構えという次元のことではなくて、神の前で誇るべき何ものもないことを知って、神にすべてを委ね、神と共に歩むことです。そのような者に、神は究極の高みである永遠の命を与えてくださるとヤコブはいいます。

この「へりくだり」は次のような行動を生み出します。7節にこうあります。「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」

神に服従することが徹底されるときには悪魔に対する反抗もおのずと起こってくるとヤコブはいいます。

ヤコブはさらに、神に服従する行為として、神に近づくことを挙げています。8節の前半にこうあります。「神に近づきなさい。」

「神に近づく」とは、どういうことでしょうか。

「神に近づく」ということについて、私たちは二つの面から考えることができます。

まず第一の面ですが、旧約聖書においては、今あなたは神から離れているのだから神のもとに帰って来なさいという呼びかけが繰り返し為されています。例えばエレミヤ書の3章の22節に次のようにあります。「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。」

このことは新約の時代になりますと「悔い改め」という言葉によって語られます。例えばマルコによる福音書の1章の15節でイエス・キリストは次のように言っておられます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

さらに、「神に近づく」という行為をヤコブの教えに沿って考えてみますと、彼は次のように言っています。今日の聖書の8節の後半から9節にこうあります。「罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。」

神に近づくにあたって、あなたがたはふさわしく自らを整えなければならないとヤコブはいっています。

自分自身の中にある愚かさ、自分独りでは生きることができないのに自分独りで生きようとする傲慢さ、それを神の言葉に照らして徹底的に知ることが神との関係の中で神の前でできるとき、人はそのような自分でありながら、なお神によって受け入れられていることを知る者とされていきます。そして、神に祈らざるを得ない、神に自分を任せる以外にない、神に従順にならざるを得ない者とされていきます。こうして神の御もとに近づこうという思いがその人の内に生まれてくるのです。

「神に近づく」ということについての第二の面ですが、旧約聖書において「神に近づく」という言葉で言い表される行動をしたのは祭司たちでした。祭司は神への供え物を携え、人々の罪の赦しのための執り成しをするために神に近づいていきました。人々に代わって神に近づき、彼らの赦しのために祈りを献げました。そういう神に近づく近づき方もあります。

しかし、今では私たちはイエス・キリストを通して神に近づくことができるようになりました。主の御名によって助けを必要としている人々のために祈ること、人生の激しい荒波のゆえに困難を抱えている人々のために祈ること、生きる希望と力とを失って、嘆き、悩んでいる人々のために神の助けと慰めと励ましを求めて祈ること、これらは皆、「神に近づく」もう一つの面です。私たちは自分のことだけでなく、他者のことも祈りの課題とすることができます。

このように、悔い改めて神の御もとに帰ろうとすることや、他者の助けのために執り成しの祈りを献げることによって神に近づこうとする私たちの行為に対して、神はどのように応えてくださるのでしょうか。

そのことについてヤコブは、「そうすれば、神は近づいてくださいます」という約束の言葉をもって示しています。8節の前半にこうあります。「そうすれば、神は近づいてくださいます。」

「そうすれば」という言葉が入っているために、神は私たち人間が何かをしなければ何もしてくれないとか、ある条件を満たせば初めて神は応じてくれるというように受け取られる面があるかもしれませんが、「そうすれば」というこの言葉はそういう意味では決してありません。むしろ神は私たちのためにいつも恵みを用意して待っていてくださる、私たちが祈りの課題としている事柄に良き解決を与えようとして常に備えていてくださいます。ただ、それを受け取る態度が人の側に整えられていなければ、それはその人のものにはなりません。それが整ったときに、用意されている神の恵みがその人のものとなるという意味で、「そうすれば」という言葉が使われているのです。

ヨハネの黙示録の3章の20節に次のようにあります。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」

神はいつも私たちの心の扉を叩き続けてくださっています。しかし、それに応じなければ、神の恵みは私たちのものとなりません。神は恵みをもって私たちの前に立っていてくださいます。その神に近づくときに、神は用意しておられる豊かな恵みをもって私たちと共に食事をしてくださいます。喜びを分かち合い、新しい恵みを与えてくださいます。神がイエス・キリストにおいていつも私たちの傍にいて私たちの応答や立ち帰りを待っておられる姿をヨハネの黙示録はこのように描いています。

神によって受け入れられていることを知って、私たちは自分の人生にもう一度挑戦することができます。一人一人が神に近づくことによって、お互い同志も近くなってきます。同じ円の周辺にいる者たちが一人一人中心に向かって近づけば近づくほど一人と一人の距離もより近づいて来ます。人が神に近づけば近づくほど人と人も互いに近づくことができるのです。

神に平和を求めて一人一人が近づくならば、人と人との間の平和もまたそれだけより現実的なものとなってきます。また互いも近づくことができる者とされます。人はこうしてイエス・キリストによって「敵意という隔ての壁」が取り壊された者として平和の内に共に生きることができる者とされます。これがイエス・キリストにおける新しい祝福です。

 

教会の存在の意味は、再びイエス・キリストが来られる時に至るまで神の計画の忠実な器として働くことです。悔い改めと執り成しの祈りをもって私たちが繰り返し神に近づくとき、そのようにして与えられている務めを果たし続けるときに、神は私たちの世界と一人一人になおいっそう近づいてくださって、用意しておられる平和の実現を現実のものとしてくださいます。教会に託されている務めの大きさと光栄を、私たちは改めて心に刻みたいと思います。