「神の業に圧倒される」

                       ルカによる福音書1525節  

                                                  水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はルカによる福音書の1章の5節から25節です。

5節から7節にこうあります。「ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。」

ユダヤにザカリアという祭司がいました。彼にはエリサベトという妻がいました。彼らには子供がなく、二人とも高齢でした。

8節から10節にこうあります。「さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。」

9節に「祭司職のしきたりによって」とあります。ユダヤの祭司は二十四の部族から成っていました。各部族は半年ごと一週間ずつ聖所で奉仕をしました。しかし、祭司の数が多かったので、個人にはくじ引きがなされました。当時、くじは神の意志を知る一つの方法でした。ザカリアはそのくじに当ったのです。

11節から18節にこうあります。「すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。『恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。』そこで、ザカリアは天使に言った。『何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。』」

ザカリアが聖所で務めをしていると、そこに天使が現れます。天使はザカリアの妻エリサベトが男の子を産むことを予告します。洗礼者ヨハネの誕生です。しかし、ザカリアにとってそれはあまりにも思いがけないことでした。そこで彼は何かのしるしによってそれが本当に確実なのかを知りたいと願います。

19節から20節にこうあります。天使は答えた。『わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」

ザカリアは天使から「あなたの妻エリサベトは男の子を産む」と告げられました。それに対してザカリアは「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と言いました。つまり、ザカリアは天使に、すなわち神に抵抗しました。すると、その結果、話すことができなくなった、沈黙を強いられたというのです。

6節にありますように、ザカリアは神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころのない人でした。そこに彼の生き方があり、生きがいがありました。またそれが彼の誇りだったに違いありません。しかし、ザカリアも人間です。その心の底にはどんな偉そうなことを言ったところでわれわれには子供がいないのだから、結局は一代限りでおしまいだ、という言い知れない寂しさのようなものがあったのではないでしょうか。そのザカリアに天使、すなわち神はお答えになりました。「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。」

ここで私たちが知らされること、それは喜ばしい知らせ、福音というのは、神が人間の都合などおかまいなく強引にお与えになる事柄なのだということです。もちろんおかまいなくというのは人間の側の言い分です。私たち人間は神の業に抵抗します。そんなことはあり得ません、受け入れられませんと言って抵抗します。しかし、神はその出来事をもって私たち人間に御業をなされます。その中で私たちは笑ったり泣いたりしているのです。

その笑いや涙の底には、なぜ神はそのようになさるのか、ということが秘められています。しかも、なぜと言って理屈で説明できるものではありません。神は出来事として私たちに出会われるのです。その出来事の前に私たち人間はただ言葉を失って沈黙を守るより仕方がないのです。神の業というものが私たちに起こるときには私たちは判断を停止し、神の御業に自分自身を明け渡すよりほかないのです。

大切なのはそれらの出来事を通して神が私たちに出会っておられるという事実です。それが私たちにとっては喜びであったり悲しみであったりする、そういう出来事一つ一つの中で、実は私たちは神と出会っているのです。

そして、そういう出来事一つ一つの中で私たちは神と共なる存在とされます。私たちはそのとき、その場に放り出されて独りきりにされるわけではありません。私たちが泣くときには神もお泣きになります。私たち喜ぶときには神も喜んでくださいます。そういう仕方で神は私たちに伴っておられるのです。

では、私たちにとっての最大の問題、死についてはどうでしょうか。神は私たちと共に死ぬことはできるのでしょうか。この質問に対して聖書は「そうだ」と答えます。「そうだ。神はまさしく死なれた。それがあのイエスの十字架の語る意味だ」と。

神は私たちと共に死なれます。私たちと共に死の世界まで行ってくださいます。私たちは神に信頼して生きます。そして神に信頼して死ぬのです。神と共に死ぬのですから、もはや私たちはひとり孤独の中で死ぬのではないのですから、私たちは死を恐れる必要はありません。私たちは安心して死ぬことができます。感謝して死ぬことができます。

マザー・テレサという人がいます。マザー・テレサはインドのカルカッタという町でたくさんの死にかけている人々を連れてその人たちの最期を看取りました。そのとき多くの人たちはほほ笑みを浮かべながら「ありがとう」と言って死んでいきました。死にゆく人たちはそこで孤独の死ではなく、死まで一緒にいてくれる人がいるということを通して死を克服する体験をしているのではないでしょうか。

私たちにとって神というのは理屈で考えられるような遥か彼方の存在なのではありません。私たちの神は生ける神として私たちに出会われます。私たちは神の御業を通して神の愛に出会うのです。

私たちはよく様々な出来事で悩み苦しんでいるときに解決策を見つけようとします。「ものは考えようだ。少し考えを変えたらこの出来事の意味が分かるのではないだろうか」と思うことがあります。考え方を変えることによってひとときの気休めにはなるかもしれません。しかし、変える必要はないのです。そのようなとき、私たちは沈黙すればよいのです。神の業に取り込まれて黙ってしまえばよいのです。神が行為者であって、そのとき私たち人間は神の前においてただ待ち、ただ望み、ただ信頼し、ただ受け入れるだけなのです。大切なのは神の御業の前に沈黙することです。私たちがその沈黙を強いられるような仕方で、ただ神の御業に圧倒されることです。それが今日の聖書が示す信仰の道です。

もうしばらくするとクリスマスがやって来ます。クリスマスが、イエス・キリストの誕生の記事が私たちに語ろうとしているメッセージは、神の言葉であるイエス・キリストが肉となって私たちの間に宿られたという出来事に私たちが圧倒されることです。神の御業の前に私たちがもう一度立たされることです。

神が私たちと一緒にいてくださるということ、これを聖書では「インマヌエル」という言葉で語ります。「神、我らと共にいます」という意味です。ザカリアの立派さ、エリサベトの立派さ、そのようなものが全く無になってしまうような仕方で、神は私たち一人一人の前に立って言われます。「わたしはあなたと共にいる。あなたには新しい明日がある」と。その「明日」はもしかすると私たち人間の目には悲しみに満ちた明日であるかもしれません。苦しみに満ちた明日であるかもしれません。しかし、それはまぎれもなく神の希望に満ちた明日です。

私たちの生活を見るならば神の業でないものは何一つありません。その中で、ただ私たち人間は一生懸命にいろいろな理屈をつけてそれに圧倒されることを拒んでいるに過ぎません。私たちにとっての最善は神の御心がなることです。

 

私たちは沈黙の内に私たちの生活の中に働きかけておられる神の御業を見つめたいと思います。神の御業に生かされ続ける者でありたいと思います。天使は言いました。「恐れることはない。」この言葉に励まされながら、神が備えてくださる明日への一歩を、勇気をもって踏み出していく者でありたいと思います。