「忍耐しなさい」

                       ヤコブの手紙5章7~11節 

                                                水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヤコブの手紙の5章の7節から11節です。

この箇所のテーマは「忍耐しなさい」という言葉でまとめることができます。

では、この場合の「忍耐」とはどういうことなのでしょうか。

そのことについてヤコブは幾つかの例を挙げて説明しています。

その第一に挙げられているのは「農夫」の例です。

7節の後半にこうあります。「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。」

農夫は小麦の栽培をするとき、10月から11月頃に降る秋の雨によって土が柔らかくなるのを待って、そのあとに種を蒔きます。それ以前に焦って、「もう時期が来たから」ということで雨を待ちきれずに種を蒔いても、種の芽生えに結びつきません。秋の雨が降るのを待つ忍耐が農夫には必要なのです。それだけでなく、収穫の前、4月から5月にかけて降る春の雨、これも待たなければなりません。それは実が十分に熟すためです。この春の雨が降ったあとにやっと刈り入れをするのです。そのような忍耐が「大地の尊い実り」を手にすることに結びつくと語られています。忍耐が無駄になることはないということを農夫は知っているというのです。

農夫は自分の力の限界を知っています。人間ができることは限られているということをわきまえています。すべての時を支配される神に委ねなければならないことがあるということを承知しています。その経験から来る知識が農夫に忍耐を身につけさせるのです。

ヤコブが忍耐することの意義を語るために取り上げている第二の例は旧約の預言者たちです。

10節にこうあります。「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。」

旧約の預言者たちは神の栄誉が傷つけられる中で、その神に仕え、その神の言葉を語り、その神の名において人々に悔い改めを求めました。そのために様々な迫害を受け、命の危険にさらされ、実際に死んでいった者たちもいました。

ここに、神への信頼のゆえにその務めを放棄しなかった預言者たちの姿を見ることができます。それは生きて働いておられる神が彼らを支えてくださったからこそ可能となった出来事でした。彼らの精神力や忍耐力や肉体の力ではなくて、生ける神の生ける力が彼らを支えたのです。忍耐とはそのように神によって支えられ与えられるものであるのです。

三番目に、忍耐して祝福を得た人の例としてヨブ記のヨブの名前が挙げられています。

11節にこうあります。「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」

ヨブは敬虔な信仰深い人物であり、地上の富にも恵まれていました。しかし、ある時以来、彼から祝福や幸いや平安が次々に奪われていくことになります。そういう中でヨブは、初めは、「わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と信仰の強さを示していました。しかし、次第に友人たちの説得に対して激しく反論するようになり、そして自分の命、自分の存在さえも呪って死を願うところまで至りました。

そのような苦しみや悲惨の中で、なおヨブの顔は神のほうを向き、彼の心は神から離れませんでした。彼は生き抜いたのです。その結果、「あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています」とあるように、神はヨブを以前にも増して祝福されたのです。

このヨブの例から、神が人に忍耐をお求めになるときの目的が何であるかを私たちは知ることができます。つまり、神が人に忍耐をお求めになるときの目的はより大きな祝福をその人に与えることにあるということです。

そのことは忍耐の渦中にある時はなかなか分かりません。「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」とありますが、人は忍耐のあとにこの言葉を語ることができます。それゆえに、「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います」とヤコブは重く深く私たちの心に響いてくる言葉を語っているのです。

こうして信仰によって様々な困難と苦しみと戦いを通して忍耐を貫いた三つの例を挙げながら、ヤコブは今実際に苦しみの中で忍耐するほかない教会の人々を励ましています。

8節にこうあります。「あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。」

そして、そのときの支えとなる根本的なことを指し示しています。

それは7節の前半と8節の後半に示されています。

7節の前半にこうあります。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。」

また、8節の後半にこうあります。「主が来られる時が迫っているからです。」

つまり、主が再び来られる時、イエス・キリストの再臨の時が来たならば、不正に悩んでいた人々、悪事に苦しめられていた人々、理不尽な出来事に振り回されてきた人々に、神はその豊かな慈しみと憐れみのゆえに平安と慰めを与えてくださる、以前にも勝る喜びを回復してくださる、その時が近づいている、それゆえあなたがたは耐え忍びなさい、というのです。

しかし、実際は、初代教会の人々が希望として持ち続けてきた主の再臨の出来事は彼らが生きている間には起こりませんでした。さらに、今日まで主の再臨の出来事はまだ起こっていません。そうであるならば、私たちはこのヤコブの勧めや励ましをどのように受け止めたらよいでしょうか。「主が来られるときまで忍耐しなさい」ということをどう考えたらよいでしょうか。

多くの忍耐しなければならないことを抱えており、また今後もそのようなことが繰り返し起こってくるに違いない私たちにとって、このことの理解は切実なものだと言わざるを得ません。

私たちにとっても「忍耐しなさい」と言われることの根拠は、初代教会の人々と同じように、やはり主が来られること以外にありません。主の再臨は私たちが生きている間に起こることではないかもしれません。しかし、すべてのことを御存じの主が再び来られる時、9節の後半にあるように、「裁く方が戸口に立つ」出来事、終末の審判が起こるのです。その時、あらゆる事柄の真相が明らかにされて、すべての事柄が神の御心のままに秩序づけられるのです。そうであるならば、御心に従って忍耐すること、それは「主が来られる」との信仰に立つ以外にありません。

私たちは主の忍耐を知っています。主は地上にあってあらゆる苦しみと試練とを耐え抜かれた方でした。その終わりは十字架の死でした。そして、この苦難と死を耐え忍ばれた主に神がお与えになったもの、それは復活の勝利でした。神への信頼に立って忍耐の生涯を閉じられた主に神が与えてくださった尊い実りは、永遠の命という輝きに満ちたものでした。

主の忍耐は同時に、神の私たちに対する忍耐でもありました。この神の忍耐があるからこそ私たちの忍耐も支えられ、意味あるものとされ、終わりの時の実りへとそれは結びつけられるのです。

今受けている苦しみ、今受けている艱難の目的や意味を私たちは納得いくほど完璧に理解することはできません。しかし、農夫が忍耐して収穫を待つことができるように、また預言者たちが迫害の中で神への信頼を貫いたように、ヨブが苦しみと試練に耐えながらそれが祝福に結びついたように、私たちが今為さなければならないそれぞれの忍耐にも神の目的や意味が隠されていることを確信すること、それを信じることが私たちに求められています。

もしかすると、その生涯に何の不平も不満も疑いも戦いも起こらないという信仰生活を送ることができた人もあるかもしれません。しかし、ほとんどの人々にとって、爆発しそうなほどの神への不満やほかの人々への疑いにさいなまれるということが起こり得るのです。神は自分のことを忘れてしまった、そのように思う時が私たちの信仰生活において何度も起こるかもしれません。

しかし、そんなときにもなお「不平を言わぬこと」とヤコブは語っています。

9節にこうあります。「兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。」

神を呪うことで終わらずに、小さくなりかけた信仰でありながらなおその信仰を通して神にしがみついているならば、そこに神の御手は確実に伸ばされています。それゆえ私たちは神から切り離されることはありません。私たちが苦しみに遭い、忍耐を必要とするときはそれだけ近く神が私のもとにいてくださるときです。神が自分に近いからこそ神に敵対する力もまた激しく自分に襲いかかっている、耐えなければならないときは神が自分の傍近くにいてくださる時なのだ、そのように捉えることが私たちには許されているのです。

 

私たちの力だけではどうにもならないこの忍耐は、求める者に神から贈られてくる賜物です。私たちの忍耐は、生きる希望が失われているにもかかわらず信仰に従って生きようとする人に神が与えてくださる恵みの贈り物です。私たちの方策や手段が一切消え失せてしまったところで神が贈ってくださる忍耐は終わりの時の豊かな実りのしるしにほかなりません。私たちの忍耐は私たちが主に結びついている以上に主が私に結びついていてくださっていることの表れなのだということを、ヤコブは私たちに教えてくれているのです。