「神への賛美と祈りと感謝」

       コリントの信徒への手紙二 91315節 

                 水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の9章の13節から15節です。

13節でパウロはこう言っています。「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。」

「この奉仕の業が実際に行われた結果として」とあります。「この奉仕の業」というのはエルサレムの教会の困窮している人々への支援のことです。当時、エルサレムの教会には貧しい人々が沢山いて、彼らを支援することは諸教会の人々にとっての課題でした。パウロはその要請を今コリントの教会の人々にもしているのです。

私たちが支援をするときに考えなければならないことの一つは、その仕方でしょう。それが信仰によって行われているか、ということです。あるいは、人に知られることを求めたり、自分の好みにだけ合うようなことをしていないか、ということです。支援によって信仰が証しされるならば、これほどよいことはないでしょう。

この奉仕の業が実際に行われた結果として」。ある人はここの所を次のように訳しています。「この奉仕の業という試みによって。」そして、その「試み」という言葉を次のように説明しています。「ここでは証し、教え、経験の意味に用いられている。」支援というのは、信仰の証しにもなるし、信仰を教えることにもなるし、信仰の大きな経験にもなるというのです。そうであれば、支援を行うことは、すべてのキリスト者が望むことでしょう。

この「結果」と訳されているもとの言葉は、鉱石の純度を計る際に用いられた言葉です。いろいろ検査をした結果、この石は純度が高い、ということを表すときに用いられたのです。ですから、ここの所を「この奉仕の業が本物であることが分かって」と訳している人もいます。

では、支援が本物であることが分かることによって、何が明らかになるのでしょうか。それは「キリストの福音を従順に公言していること」です。イエス・キリストが救い主であることが人々に知られるようになるのです。

これは多くの人が予想もしなかったことなのではないでしょうか。支援を行うには何が必要でしょうか。おそらく多くの人は愛と言うでしょう。ところがパウロは信仰を告白することだと言うのです。

イエス・キリストが救い主であることを公に言い表すことは、私たちの信仰生活の基本となるものです。そうであるなら、イエス・キリストが救い主であることを公に言い表すことができなければ、支援も本当にはできないでしょう。

そういうことから考えると、「自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分ける」理由が分かります。支援は人と人との交わりです。与える人と受ける人との交わりです。そのような交わりは、あらゆる人を受け入れることができなければできるものではありません。そのためにはイエス・キリストを救い主として信じることが必要です。なぜなら、イエス・キリストは、すべての人の罪をお赦しになるために十字架の上で死に、復活されたお方だからです。

では、信仰を公に告白し、人々と交わり、支援することによって、どういうことが起こるのでしょうか。「神をほめたたえる」ということが起こります。神を賛美するのです。神に栄光を帰すのです。

それだけではありません。14節にこうあります。「更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。」

私たちが支援をするときに欲しいもの、それは豊かさです。そのために物を集めて豊かになろうと努めます。しかし、支援のときに与えられる神の祝福は、どれだけの物を与え受けたかということではなくて、そこで神の恵みの豊かさを知ることができることにあります。たとえ集められたものが僅かであっても、神の恵みが豊かだと感じることができるのです。

そのように、すべてのことが信仰によって運ばれるとき、その恵みのゆえに支援を受ける人々は、支援を行う人々を「慕う」ようになります。

支援を受ける人々が支援を行う人々を慕うようになることは、当然のことと思われるかもしれません。しかし、パウロは、ただ「支援」と言わずに、「あなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て」と言っています。神の恵みを受けるのは、支援を受ける人々よりも、むしろ支援を行う人々だというのです。

このことはあまり一般に考えられていないことではないでしょうか。一般に考えられていることから言えば、支援を受ける人々が神の恵みを受けるということになるのではないでしょうか。ところがパウロは支援を行う人々こそ神の恵みを受けるというのです。なぜでしょうか。「受けるよりは与える方が幸いである」。このイエス・キリストの言葉がパウロの心の中にあったのだと思います。使徒言行録の20章の35節にこの言葉が書かれています。神の恵みは一般の恵みとは異なるのです。

ですから、そこから生まれるものも一般の人々には馴染みの薄い「祈り」です。信仰をもって行う支援は、神への賛美と共に祈りも生むのです。

ここまで語って、パウロは神に感謝せずにはいられなくなりました。15節にこうあります。「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」

「言葉では言い尽くせない贈り物」。これはイエス・キリストのことです。私たちキリスト者の支援に表される神の恵みは、イエス・キリストの十字架と復活の救いにおいて完全に現れたものです。ですから、それは言葉では言い尽すことができません。それほどイエス・キリストの救いは広く、深いものなのです。

 

こうして長く続いた支援の話は、賛美と祈りと感謝で結ばれることになりました。このことは大変大事なことです。なぜなら、これによって私たちの信仰生活がどういうものであるかが示されているからです。イエス・キリストの救いの恵みは、私たちの中に神への賛美と祈りと感謝を生み出し、その恵みが人々を潤します。ここに私たちの生きる道があります。