「神に由来する力」

           コリントの信徒への手紙二 1016節 

                   水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の10章の1節から6節です。

1節でパウロはこう言っています。「さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。」

「このわたしパウロが」とあります。これはとても強い響きを持った言葉です。そういう言葉でパウロはこの箇所を書き始めています。その上で、「キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います」と言います。

ある人は今日の聖書の箇所を「戦い」と名づけています。事実、この箇所はパウロに敵対する人々を視野に入れつつ書かれています。パウロはその戦いをキリストの優しさと心の広さとをもって戦おうというのです。

パウロに敵対する人々は、パウロのことを、「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」と言っていました。これはひと言で言えば、お前は卑怯だ、ということです。パウロはそういう悪口を言う相手に対して、キリストの優しさと心の広さとをもって戦おうとしているのです。いったい何があったのでしょうか。

2節から3節にこうあります。「わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。」

パウロに敵対する人々は、パウロは「肉に従って歩んでいる」と見なしていました。パウロは、これまでも多くの批判を浴びてきましたが、おそらくこれが一番耐えられなかったのではないかと思います。肉に従って歩むというのは、神の力によらないで、人間の力によって歩むということです。信仰とは反対の生活をするということです。

3節にあるように、パウロは自分が「肉において歩んでいる」ことはよく知っていました。肉においてというのは、肉体を持った人間としてということです。人間として歩んでいるということです。しかし、「肉において」ということと「肉に従って」ということとは全く違います。「肉に従って」というのは人間のことしか考えない、人間の欲を中心とすることです。別の言い方をすると、霊に従わない、神に従わないということです。ですから、それはキリスト者にとっては屈辱的なことであり、致命的なことです。

したがって、2節でパウロが、そのように見なしている人に対しては「勇敢に立ち向かうつもりです」と言っているのは当然です。当面の敵である罪や死、サタンと戦うのと同じように、こういう人たちとは勇敢に戦わなければならないというのです。

パウロは3節で「肉に従って戦うのではありません」と言っています。

この世の生活は私たちキリスト者にとっては戦いです。なぜなら、この世は神に背く世だからです。そこには肉に従って戦う者が大勢いるのです。ですから、私たちの生活には常に激しい戦いがあります。そうであるなら、それはどういう戦いになるのでしょうか。

4節から6節にこうあります。「わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」

4節に「神に由来する力」とあります。「神に由来する力」とは私たちの信仰を支えてくれる神の言葉です。神の言葉が私たちの唯一の武器なのです。

4節に「要塞」とあります。この戦いは「要塞」に立ち向かうようなものだというのです。

ただし、「要塞」といっても目に見えるものが立っているのではありません。それは様々な形として現れます。4節に「わたしたちは理屈を打ち破り」とあります。また、5節に「神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し」とあります。

人間の最大の幸せは何でしょうか。それは神を知ることです。そうであるのに、世の中には神を知ることを妨げる「理屈」が少なくありません。しかし、どんなに多くても、それは偽りでしかありません。「高慢」というのは、その偽りを隠すために強がりをして見せることです。

5節に「あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ」とあります。また、6節に「あなたがたの従順」とあります。

「あなたがたの従順」とはキリストに従うことです。この戦いの最後はキリストに対してどうなるか、ということになります。キリストを信じる信仰に入るか入らないかということです。敵対する者との戦いといっても、それはパウロにとっては伝道でしかありません。相手がキリストを信じるようになることが、この戦いの目的なのです。

6節に「すべての不従順を罰する用意ができています」とあります。

この戦いにおけるパウロの願いは、すべての者がキリストを信じるようになることです。そのために、パウロはまず、キリストの優しさと心の広さとをもって接します。その愛に触れて、キリストに従う人々が起こされていきます。キリストを信じようとしない人には罰する用意があることを示して、キリストへの従順を求めます。見捨てることは決してしないのです。

パウロは今日の聖書の始めに、自分に敵対する者から悪口を言われたことを書きました。それがこの話のきっかけでした。聖書の中にこのような悪口が出てくることは興味深いことです。それは悪口がいいということではありません。聖書の語る信仰は決してきれい事ではないということです。

信仰生活は私たちの生活の只中で営まれます。そうであるなら、それは悪戦苦闘の中において戦い取られるべきものです。私たちは、神の言葉に支えられつつ、力を尽くして、まことの命を獲得するのです。