「主から推薦される人」

        コリントの信徒への手紙二 101218節 

                 水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の10章の12節から18節です。

この箇所でパウロは「誇り」について語っています。パウロは人間には誇るところがなければならないと考えていました。けれども、パウロにとって誇りというのは、自慢することではなくて、神から与えられた使命について誇ることでした。神からイエス・キリストの福音を伝道するように命じられていることが彼の最大の誇りでした。

ですから、パウロはこの誇りには限度というものがあることを知っていました。前回学んだ8節に「いささか誇りすぎたとしても」とあります。これは限度を心得ている者の言葉でしょう。

今日の箇所では13節に「限度を超えては誇らず」とあります。また、15節に「限度を超えて誇るようなことはしません」とあります。

パウロは誇ることを大事なこととして考えていましたが、それはいつも限度を超えないことが大切だと思っていました。そうであるなら、その限度とは何でしょうか。

12節にこうあります。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。」

パウロがここに挙げているのは、自分のことを自慢している人たち、自分を売り込もうとしている人たちです。彼らのように自己推薦はしないというのです。自己推薦するというのは、自分で自分を誇ることです。自分で限度を定めることです。そういうことは仲間同士で互いに計り合ったり比べ合ったりしても意味のないことだというのです。その計りはめいめいが自分で造ったものなので何の計りにもならないというのです。

では、パウロが大事にしている誇りというのはどういう誇りなのでしょうか。それは、そういう人間を中心にした誇りではなくて、神を中心にした誇りです。

13節にこうあります。「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。」

パウロがコリントの教会を訪問したのは自分の考えによるものではありません。まして自分を誇るためでもありません。それは神の御旨によります。パウロはそれに従ったのです。ですから、もし誇るとすれば、自分をそのように用いてくださった神を誇るというのです。

この誇りは世の誇りとは全く違います。この誇りは、世の人々がするような自慢話でもなければ、お世辞を言い合うことでもありません。人間の誇りなどはたかが知れています。裏の裏まで見通されています。神のまなざしに耐えられるようなものではないのです。ですから、もし私たちがまことの誇りを持とうというのなら、神の裁きに耐えられるものでなければなりません。

そうであるなら、私たちが誇ることのできるもの、それはイエス・キリストのみです。イエス・キリストは私たちの弱さを知っておられます。イエス・キリストは私たちを憐れんでくださいました。私たちの罪のために死んでくださいました。私たちを死から救ってくださいました。

私たちはイエス・キリストの御前に身づくろいをして形を整える必要がありません。私たちにただ一つ求められてること、それは、自分をありのままにさらけ出し、自分の罪を告白し、弱さをそのまま出すこと、すなわち悔い改めることです。そのとき、イエス・キリストは私たちの罪を赦してくださいます。そして、私たちを永遠の命の中で生かしてくださいます。それゆえ、私たちが誇ることができるものはイエス・キリストしかありません。

イエス・キリストを誇る。これこそパウロが最も愛した言葉です。

17節にこうあります。「誇る者は主を誇れ。」

この言葉はコリントの信徒への第一の手紙の1章の31節にもあります。コリントの信徒への第一の手紙の1章の後半は人間の弱さについて語られています。しるしを求めるユダヤ人も、知恵を探すギリシア人も、神の前にはただ貧しい人間でしかありません。「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」とパウロは言っています。そして、「誇る者は主を誇れ」という言葉を引用するのです。

「誇る者は主を誇れ。」これは旧約聖書のエレミヤ書の9章の23節、24節の内容を取ったものです。エレミヤ書で言われている「主」というのは神のことですが、パウロは神だけでなく、イエス・キリストを指していると信じました。

パウロは私たちに誇りを持てと言います。そして、われわれの誇りはイエス・キリストだと言います。このキリストに救われて、このキリストを喜びとし、このキリストの思いのままに生きるところにこそ、われわれの誇りがあると言うのです。

今日の聖書の18節にこうあります。「自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。」

今日、私たちは12節から読み始めました。12節は「自己推薦する者たち」のことから始まっています。そして、この終わりに来て、「主から推薦される人」で話が結ばれています。「主から推薦される人」とはどういう人でしょうか。

それは主に気に入られたから推薦されるというのではありません。その人に値打ちがあるから推薦されるのではありません。「主から推薦される人」、それは主に救われた人ということです。イエス・キリストの救いによって主のものとされ、主に用いられている人です。私たちのことです。別の言葉で言えば、それは、私たちは主から「適格者」として受け入れられたということです。

 

しかし、私たちは安心してはなりません。ある人がこの「適格者」という所を「本物」と訳しています。「自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、本物として受け入れられるのです。」つまり、「自分には力がある」と少しでも自己推薦の気持ちが起これば、その瞬間、私たちは本物ではなくなってしまうのです。