「神がご存じです」

          コリントの信徒への手紙二 11711節 

                   水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の11章の7節から11節です。

7節でパウロはこう言っています。「それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。」

「あなたがたを高めるため、自分を低くして」とあります。これはパウロがコリントの教会の人々にお世辞を言ったとか、おだてたとかというようなことではありません。パウロが自分を空しくしたことを示しています。

なぜ、パウロは自分を空しくしたのでしょうか。それは神の福音を告げ知らせるためです。神の福音を告げ知らせるのに何かうまい方法があるわけではありません。自分の力で神の福音を人に信じさせることはできません。神の福音を告げ知らせるときに大切なのは福音そのものに語らせることです。別の言葉で言えば、神に語っていただくのです。

ですから、神の福音を語るときにしなければならないことは福音だけが生きるようにすることです。語る者の努力は、そのように神の福音を生かすにはどうしたらいいかということです。その努力を全部合わせると自分を低くするということになるのです。

それに続いて、パウロは神の福音を「無報酬で」告げ知らせたと言います。この「無報酬で」という言葉は、口語訳聖書では「価なしに」と訳されています。神の福音を価なしに語るということも重要です。それは神の福音の性質から言えることです。

私たちが救われたのは私たちが何かをしたからではありません。私たちにそれだけの値打ちがあったからでもありません。私たちは罪人でした。自分で自分を救うことのできない者でした。その私たちが神の福音によって救われたのです。価なしに救われたのです。この価なしにということのゆえに、どんなに多くの人が喜びに溢れたことでしょう。これこそまことの救いのしるしです

それと共に、この「無報酬で」という言葉には「費用をかけずに」という意味があります。費用をかけずに伝道することは不可能です。伝道する場所も必要なら、そのための人も必要だからです。パウロも伝道する者には教会の支えが必要であることを主張しています。しかし、コリントの教会に対しては無報酬で働きました。設立されたばかりの教会に負担をかけるようなことはしたくないと考えていたのでしょう。

ところが、そのことがかえって誤解を招いて、コリントの教会の一部の人々から非難されることになりました。パウロが報酬を受け取らないのは彼が偽使徒だからではないか、と。

誠意をもって行動する人はしばしば誤解されます。しかし、神の福音は善意が悪く取られるそのただ中で広まっていきます。大切なことは、教会の中に悪意をもって受け取る人がいることではなく、また、それに出会ってがっかりすることでもなく、そこでこそ神の福音が広まっていくことを確信する信仰を持つことです。

マタイによる福音書の5章の11節から12節でイエスはこう言っておられます。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

人から誤解され、中傷されたとき、私たちはこのイエスの言葉を忘れないようにしたいと思います。

今日の聖書の8節から9節にこうあります。「わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。」

神の福音を告げ知らせるにあたって、パウロには様々な苦労がありました。その一つは経済的なことでした。パウロは天幕造りの仕事をして生計を立てていましたが、それだけでは十分ではありませんでした。そこで、その欠乏をマケドニア州から来た兄弟たちが補ってくれたのです。

今もパウロのような自給伝道をする伝道者がいますが、多くの伝道者はその生活を教会によって支えられています。しかし、その信仰は同じです。自分の生活は自分で稼ぐということと、教会の支えによって生活するということは、違うことではありません。ひたすら神の福音に仕えるということでは同じです。

10節から11節にこうあります。「わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。」

自給で伝道をすることはパウロにとって誇りでした。しかし、コリントの教会の人々の中には、彼がわれわれから報酬を受け取らないのは、われわれのことを愛していないからではないか、と言う人もあったのでしょう。それを聞いて、パウロはどんなに悲しい思いになったでしょう。

事は行き着くところまで行き着いたと思います。それは誰が誰を愛しているか、ということです。人間の様々な思いが渦巻く中で、結局、問題になることは、このことではないでしょうか。

伝道においてはいっそう著しいことだと思います。伝道というのは神の福音を告げ知らせることです。神の福音を告げ知らせるというのはその相手の人が救われることを切に望むことです。伝道する者はその人が救われることを熱心に望みます。

その人が救われることを心から望むということは努力してできることではありません。それはその人に対するまことの思いやり、愛からしか出てきません。それがなければ、神の福音を語ったことにならないのです。したがって、伝道にならないのです。

「わたしがあなたがたを愛していないからだろうか」とパウロは言います。それは、わたしはあなたがたに伝道をしている、そのわたしがあなたがたを愛していないとでもいうのか、ということです。

おそらく、コリントの教会の人々には分からなかったのでしょう。コリントの教会は若い教会です。信仰に入ったばかりの人が多かったと思います。そのため、信仰に立って物事を考えるということがなかなかできなかったのでしょう。

そこでパウロは彼らの信仰を呼び起こすようにして訴えます。「神がご存じです」。わたしがあなたがたを愛していることは神がご存じです、だから安心しなさい、安心して信仰生活に励みなさいというのです。

 

事は教会との間に起きた、いざこざのようなことでした。しかし、その中でパウロは乱れることがありませんでした。神の福音を語ることと、教会に対する奉仕と、それらに対する誇りとが、キリストの真実をかけて語られました。パウロを支配していたのはキリストの真実でした。キリストの救いの恵みがいつも彼を支えていたのです。キリストの救いの恵みこそ、私たちの信仰生活を支える土台なのです。