「主の苦しみに与る」

         コリントの信徒への手紙二 111633節 

                     水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の11章の16節から33節です。

この箇所には「誇る」という言葉が何度も出てきます。新約聖書には「誇る」という言葉が33回用いられていて、そのうち30回パウロが用いているそうです。パウロは「誇る」ということをどのように考えていたのでしょうか。

16節から18節にこうあります。「もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。」

パウロは人から愚か者と見なされることを覚悟の上で「わたしも誇ることにしよう」と言います。では、その誇りとはどのような内容の誇りなのでしょうか。それはパウロが伝道活動にあたって受けた数々の苦難や迫害です。

23節の後半から28節にこうあります。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」

パウロは自分が受けた苦しみを克明に挙げています。特に目立つのは人から受けた苦しみが多いことです。ユダヤ人から受けた苦しみがあります。異邦人から受けた苦しみがあります。また偽の兄弟たちからの難もあります。偽の兄弟たちからの難というのは、偽りのキリスト者たちからひどい目に遭わされたことです。

27節を読むと当時のパウロの生活の様子が目に浮かぶようです。しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたのは、経済的に貧しかったために服も買えず、宿に泊まることもできなかったからでしょう。それだけに周りの人々から蔑まれることも多かったのではないかと思います。

なぜ、パウロは誇るときに、自分がこのように苦しんだことを言わなければならなかったのでしょうか。

これを読んで気づかされることは、ここに書いてある苦しみはイエス・キリストが受けられた苦しみと似ているということです。細かい点で違っているところがあるにしても、イエス・キリストの生涯というのはこういう苦しみの連続だったのではないかということです。そうであるなら、パウロがこのような苦しみを誇りとして語るのは、実はそれがイエス・キリストの苦難と十字架に連なるものだったからでしょう。つまり、パウロの「誇り」というのはイエス・キリストの苦しみを共に担うことができた者の誇りだったのです。

パウロはかつて、ダマスコに向かう途上でイエス・キリストに出会い、召し出されました。イエス・キリストから「わたしに従って来なさい」と声をかけられたのです。そして、そのままイエス・キリストに従ってきました。その結果、まさにイエス・キリストが歩まれたのと同じ道を自分も歩むことになったのです。イエス・キリストを信じること、それはイエス・キリストと共に歩み、イエス・キリストの苦しみに与るということです。パウロはそれを、誇りをもって語っているのです。

30節にこうあります。「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」

パウロは様々な苦難や迫害を受けて苦しんでいたとき、しみじみ自分の弱さを知らされたでしょう。自分の力というものがいかに頼りにならないものであるかということを思い知らされたでしょう。だからこそ、そのとき強く感じたのは、イエス・キリストご自身の力でした。苦難と迫害の中で自分を生かし続けるイエス・キリストの力でした。

それと共に、パウロはイエス・キリストの愛も強く感じたに違いありません。イエス・キリストは苦しみの中にあるパウロを慰めてくださいました。ご自分がいつも傍にいることを知らせて、パウロを励ましてくださいました。そのことによってパウロは生きる希望と勇気を与えられました。ですから、「自分の弱さにかかわる事柄を誇りましょう」というのはイエス・キリストの力とイエス・キリストの愛の深さを讃える言葉です。イエス・キリストに従うとき、自分の弱さにかかわる事柄を誇ることは、信仰の告白にも信仰の証しにもなるのです。

29節の前半にこうあります。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。」

信仰において弱さを誇るということが今見てきたようなことであるなら、自分の弱さだけでなく、他者の弱さも思うことができるはずです。なぜなら、そこにもその弱さを担っておられるイエス・キリストがおられるからです。イエス・キリストがパウロに力を与え、愛をもって支えてくださったように、パウロも他者に寄り添うのです。

29節の後半にこうあります。「だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」

これは興味深い言葉です。普通は、だれかがつまずくなら、わたしがつまずかないでいられるでしょうか、と言うのではないでしょうか。しかし、パウロはそれを逆にして言うのです。「だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」

では、パウロの心を燃え上がらせる炎とは何でしょうか。その炎はどこから来るのでしょうか。それはイエス・キリストの十字架から来ます。

家庭でも、職場でも、社会でも、どこでも、私たちの苦しみの原因にならないような場所はこの世に一つもありません。その誰でも弱る苦しみのただ中に一筋の光が射してくるのです。その光を受けるとき、隣人を自分のように愛する心が生まれるのです。他者に寄り添おうとする心が生まれるのです。

イエス・キリストに従って生きるとき、私たちの苦しみと弱さはすべて恵みに変えられます。家庭でも、職場でも、社会でも、どこでも、私たちの苦しみの原因にならないような場所はこの世に一つもありませんが、しかし、そのどこでも、イエス・キリストにあって恵みの炎とならないような所もまた一つもないのです。私たちは、このことを心に覚えて、この週も勇気をもって人生の荒波の中へ舟を漕ぎ出していきたいと思います。