「神の熱い思い」

         コリントの信徒への手紙二 1116節 

                  水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の11章の1節から6節です。

2節の前半でパウロはこう言っています。「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。」

パウロがこれまでコリントの教会の人々に語ってきたことは、自分の思いからではありません。「神が抱いておられる熱い思い」から語ってきました。「神が抱いておられる熱い思い」とは何でしょうか。神の思いはすべて、私たち人間の救いに向けられています。ですから、パウロの思いもまたすべて、人間の救いに向けられています。それは、今、特にコリントの教会の人々に向けられています。

2節の後半にこうあります。「なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。」

パウロはコリントの教会の人々をキリストと婚約した者と見ています。信仰生活において何よりも重要なのはキリストです。信仰生活はキリストを離れてはありません。信仰生活はキリストと共に生きることです。

キリストと共に生きる生活にもいろいろあるでしょう。例えば、キリストと共にあるゆえに、いつでも安心していることができるということです。これは信仰生活においてとても大切なことです。

けれども、ここで言われているのはもう一つのことです。それは、キリストと共に生きるのであれば、キリストに対して「純潔」でなければならないということです。婚約をした者にとって重要なことは偽りのないことでしょう。相手をひたすら愛するひたむきさです。

信仰はもともと「真実」という意味の言葉です。キリストは私たちを愛して、私たちに救いを与えてくださいました。それなら、私たちはどこまでもキリストに対して真実でなければなりません。

ですから、キリストと共に生きる生活にとって最も恐ろしいことは、キリストに対する真実を失うことです。このことについてパウロは創世記の出来事を引いて説明しています。

3節にこうあります。「ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」

エバはアダムと共にエデンの園の中央にあった木の実を食べることを神から禁じられていました。しかし、蛇が来て、そのような命令は守る必要がないと言って、そそのかしました。エバはそれに乗せられ、木の実を食べただけでなく、アダムにも食べさせました。そのため、神に対するエバとアダムの態度がすっかり変わってしまいました。それまでは何の恐れもなく神の前に出ていた二人でしたが、禁じられていた木の実を食べてからは、自分たちが裸であることを恥じるようになり、ついには楽園から追放されてしまいました。神に対するエバとアダムの思いが蛇の誘惑によって汚されてしまったのです。

エバとアダムが蛇によって誘惑された最大の点は、禁じられている木の実を食べると「神のようになれる」ということでした。「神のようになれる」ということは人間にとって最大の誘惑です。それは、神はいらないということです。ですからそれは神に対する最大の冒涜です。

パウロはコリントの教会の人々にも同じような危険があるといいます。

4節にこうあります。「なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。」

パウロはここで三つの出来事を挙げています。

第一は、ある人々がコリントの教会にやって来て、パウロの宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えたことです。この人々は偽の使徒です。

パウロにとってもコリントの教会の人々にとっても一番大切なのはイエスをどう信じるかということです。

これはいつの時代でも同じです。キリスト者なら誰でもイエスを救い主として信じているでしょう。しかし、中にはイエスを自分の気に入るような救い主として考えている人もあります。十字架にかけられ復活させられて私たちを救ってくださった救い主としてではなく、何かもっと自分の欲求を適えてくれるような救い主として考えているのです。しかし、それはパウロが宣べ伝えたイエスとは異なるイエスであって、そういう信仰からはキリストに対する真実は生まれません。

第二は、この偽使徒たちによってコリントの教会の人々が自分たちの受けたことのない違った霊を受けることになったことです。

福音書を読むと、イエスはたびたび悪霊に取りつかれた人に悩まされました。そして、その後の教会も聖霊とは違う霊を信じる人々に混乱させられました。救いを受けた者は聖霊を受けて生活するのに、違う霊を信じて誤った信仰生活をしたのです。イエスを正しく信じることができなければ聖霊を受けることができないのです。

第三は、この偽使徒たちによってコリントの教会の人々が自分たちの受け入れたことのない違った福音を聞かされたことです。

おそらく、聞かされたのは一つだけではなくていろいろあったと思います。しかし、ここに挙げられているように、正しい福音というのは、正しくイエスを信じさせて聖霊を受けることができるようにしてくれる福音です。この三つは深く連なっているのです。パウロはコリントの教会の人々がこれらの出来事によく耐えてきたことを感謝しているのです。

パウロはこの偽使徒たちが自分をどのように見ているかを考えないではいられませんでした。

5節から6節にこうあります。「あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。そして、わたしたちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました。」

パウロは、自分は「あの大使徒」と呼ばれる人たちに弁舌においてはとても及ばないと思っていました。「あの大使徒たち」というのは、おそらくエルサレムの教会のペトロやヤコブやヨハネたちのことでしょう。しかし、「知識」においては決して引けを取るものではないと確信していました。「知識」というのは、人間的な知識や学問的な知識ではなく、聖霊から教えられる知識と言葉です。ほかのことについては及ばないとしても、このことについてははっきりとした確信を持っていたのです。

ここで参考になるのはコリントの信徒への第一の手紙の2章の12節から13節です。パウロはそこでこう言っています。「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、〝霊〟に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。」

 

この聖霊から与えられる知識と言葉こそ、パウロを生かし、私たちを生かす神の力です。私たちは、この力に導かれながら、キリストに救われた者としてふさわしく歩んでいきたいと思います。