「キリストのために小さくなる」

         コリントの信徒への手紙二 121113節 

                    水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の12章の11節から13節です。

私たちはしばらくの間、パウロが語る「誇り」について学んできました。それは10章から12章にかけてパウロがしきりに「誇り」について語っているからです。

それと共に私たちがもう一つ気づかされることは、「愚か」という言葉も同じように多く語られていることです。確認しますと、まず11章の1節に「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが」とあります。次に11章の16節に「だれもわたしを愚か者と思わないでほしい」とあります。さらに11章の21節に「愚か者になったつもりで言いますが」とあります。さらにまた12章の6節に「愚か者にはならないでしょう」とあります。そして、今日の聖書の11節の前半に「わたしは愚か者になってしまいました」とあります。パウロはこんなにも「愚か」ということについて語っているのです。

おそらく、パウロは「誇る」ということを言いながら「愚か」ということを言わないではいられなかったのだろうと思います。誇ることには愚かな点がある、しかしわたしはあえて愚か者になるというのです。なぜ、パウロは愚か者になるというのでしょうか。

ここで参考になるのはコリントの信徒への第1の手紙の4章の10節です。そこでパウロはこう言っています。「わたしたちはキリストのために愚か者となっている」。つまり、パウロが愚か者になっているのはすべてキリストのためだったのです。

パウロの信仰生活の中心はキリストを誇ることでした。キリストを誇るというのはキリストを何よりも大事にするということです。キリストのためにどんなことでもするのです。それはキリストのために愚か者になるということです。

言い換えれば、キリストが自分の中で大きくなるということです。キリストが大きくなるためには自分は小さくならなければなりません。

例えば、私たちは伝道集会を開く時に、「有名な人を呼んで、たくさん人を集めたい」と考えることがないでしょうか。もちろん、それはそれなりに意味のあることだと思います。人が集まらなければ伝道はできないからです。しかし、その場合、その人が有名なことがキリストの大きさを増すものだと考えるとしたら、それは間違いです。その人はできるだけ小さくなって、キリストの大きさが明らかにならなければなりません。

あるいは、私たちは時々、「教会に仕える」と言うことがあります。それは教会のために奉仕するということです。奉仕というのはキリストのために小さくなることです。しかし、「奉仕する」と言いながら、キリストが大きくならずに自分が大きくなるなら、教会に仕えることにはなりません。

パウロは愚か者になりました。彼は自分が決して愚かな人間ではないことを知っています。だからこそ、愚か者になることに大きな意味があるのです。それは尊いことなのです。

今日の聖書の11節の後半から12節にこうあります。「わたしが、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。」

これを読みますと、パウロは使徒としての力があったにもかかわらず、その力にふさわしい取り扱いをコリントの教会の人々から受けていなかったようです。そこでパウロは自分が使徒であることを証しする必要がありました。

12節に「しるしや、不思議な業や、奇跡によって」とあります。使徒は神から遣わされた者です。ですから、使徒であることの「しるし」というのはその人自身が誇るためにあるのではありません。「しるし」はその人が愚か者であることを示すものです。愚か者であるけれども、神によって使徒の働きをすることを許されているのです。「不思議な業や、奇跡」というのは、神の力を証しする業です。人々からふさわしく扱われていない中にあって、これを成さなければならないのです。ですから、それは強い「忍耐」を必要とすることでした。

こうして、「誇り」から始まった話は、愚か者の話しになり、「忍耐」の話になりました。キリストを誇る道、キリストのために愚か者になる道は忍耐をもって貫く道です。パウロはこの道を守ったのです。

このことはさらに教会との関係にまで及んでいきます。

13節にこうあります。「あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。この不当な点をどうか許してほしい。」

パウロはコリントの教会から経済的な援助を受けていませんでした。ですから、コリントの教会が他の教会と比べて足りないことがあるとすれば、そのことだけでした。それが悪いというのなら謝るほかないとパウロは言うのです。これはどういうことでしょうか。コリントの教会に負担をかけなかったのなら、大きな顔をしていればいいのに、パウロは反対に赦しを乞うているのです。

ある人は、ここにはコリントの教会の特別の事情があったのではないかと言います。彼らは使徒を自分たちのものだと思っていたのではないか、自分たちの所有物であるかのように考えていたのではないかというのです。

確かにコリントの教会には、「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロにつく」、「わたしはペトロにつく」と言って、自分たちの派閥を作る動きがありました。そのために、教会は疲弊し、混乱していました。そのような中で、もしパウロがコリントの教会から援助を受けたとしたら、教会の中の溝はますます深くなるでしょう。「わたしはペトロ先生を支える」、「わたしはアポロ先生を支える」。分裂が激しくなって、教会にとって大切な一致など望むべくもなくなるでしょう。

パウロはそのことを警戒してこのような言い方をしているのだろうと思います。本当ははっきり言いたかったのだろうと思います。これもまたキリストを誇る道、キリストのために愚か者になる道、忍耐をもって貫く道です。

 

このコリントの信徒への第二の手紙の中で使徒の誇りと愚かさを語っているのは特にこの辺りかもしれません。しかし、パウロは使徒として召された時からこのことを考え続けてきたと思います。私たちもキリストを誇る道、キリストのために愚か者になる道、キリストのために小さくなる道を忍耐強く歩んでいきたいと思います。