「主の復活を待ち望む」

          ヨハネによる福音書193142節 

                     水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヨハネによる福音書の19章の31節から42節です。ここに書かれているのはイエスの十字架の死のあとの出来事です。

当時、十字架にかけられた人は数日間、あるいはそれ以上に渡ってそのままの状態でさらされるのが一般的でした。場合によってはその人の足の骨などを叩き折り、死期を早めることもありました。イエスの場合は足の骨を折られようとしたのでありますけれども、既に死んでいたのでそのまま十字架から降ろされました。

新約聖書には四つの福音書がありますが、どの福音書を読んでもイエスの遺体を引き取ったのはあの十二人の弟子たちではありませんでした。このヨハネによる福音書ではアリマタヤのヨセフとニコデモという二人の人が登場しています。40節にこうあります。「彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。」そのように遺体に香料を添えることが当時のやり方だったとヨハネによる福音書は言っています。

思い起こせば、この福音書の12章には生前のイエスがベタニアのラザロの家でマリアによってナルドの香油を注がれたというエピソードが書かれています。食事の席で突然起きたこの出来事について弟子の一人のユダはマリアの行為を非難しました。それに対してイエスは、「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」と言って、そのマリアの行為を受け入れられました。

この話が伝えていることは、イエスは既にその頃、ご自分の身に死が迫っていることを知っておられた、感じておられたということです。おそらく、イエスはそれをラザロの家で初めて悟られたということではなくて、既にそれ以前から、あるいは伝道の業を始めたときから、そのような悲劇が訪れることを予期しておられたのではないかと思います。

イエスが宣べ伝えた福音、「時は満ち、神の国が近づいた」という福音は神が全ての人を御自分のもとに招いておられることを告げ、その恵みのもとで人と人とが互いに愛し合うことを勧めるものでした。そのような生き方の中に神と人とに対する新しい生き方、まことの命が実現することをイエスは教えてくださいました。しかし、そのようなメッセージはそれまでの古い世界の中で生きていた人々にとって、とりわけその古い世界の中で力を持っていた人々にとっては全く馴染みのない、不愉快な、そしてまた危険な教えでした。

福音というのはそれが本当に掛け値なしでこの世界に宣べ伝えられ、掛け値なしで受け止められ、掛け値なしでそれに生きるならば、すべての人間とこの世界を根本から変革する力を秘めています。しかし、それだけに古い世界、闇の世界、罪の世界に生きる人間からすれば、福音は恐るべきものであり、何とかしてそれを排除してしまうなり、あるいは骨抜きにしてしまう必要のあるものでした。

聖書はイエスの伝道活動が広がれば広がるほど悪霊もまたますます頑強に抵抗する力を振るうようになっていったことを伝えています。エルサレムにおいてイエスの生涯の最後の数日間に起こった諸々の事件はそのようなイエスの福音と悪霊の戦いがクライマックスに達したことの記録でもあります。木曜の晩にゲツセマネで起こったこと、大祭司の家や総督の官邸で行われた裁判、そして金曜日の十字架、そこでは悪霊が最後の力を振り絞って神の御子を死に至らせようとする激烈な戦いが展開されています。

イエスご自身もそのような戦いがやがて訪れることをご存じでした。だからこそ、マリアによって香油を注がれたとき、周囲の人々がどう感じたにせよ、それがご自分の葬りの用意となることを告げられたのです。

イエスの生涯とはそのような死を意識しながら、そのような死に向かって進んでいかれた歩みでした。

もちろん、人間は誰もがいつかは死にます。そういう意味では誰もが死に向かって歩んでいます。しかし、イエスの場合はそういう一般的な意味ではなく、このような生き方をすればそのような死に方をするだろう、いや、そういう殺され方をするだろうという覚悟の上でご自身の歩むべき道を歩み通されたのです。

そのようにして来たるべくして来た死を迎えたイエスの遺体は、先ほど読んだように、ヨセフとニコデモによって十字架から降ろされ、香料を添えた亜麻布で包まれ、墓に葬られました。既に何日か前にマリアが始めたイエスの埋葬の仕上げをこの二人が行ったのです。

マリアやヨセフやニコデモは果たして、あのように生きたイエスならばこのような死に方、このような最期を迎えることはやむを得ないと思ったでしょうか。神の御心に従って生きることがこのように悲惨な、そしてこのような空しい結末をもたらすということを、彼らはどのように受け止めたでしょうか。

十字架は人を殺し、命を奪うための道具です。十字架そのものは決して救いではありません。十字架は死と滅びのシンボルです。人間が人間に対して犯す罪のシンボルです。そしてまた十字架は、神の独り子がそれによって殺されたことによって、人間が神に対して成し遂げることのできる最大の攻撃、最大の罪のシンボルとなったのです。

古い世界、闇の世界、罪の世界に留まろうとする人々、そして悪の力はこの十字架を使って神の子を殺しました。しかしまた、逆に言えば、十字架こそがそうした人々や悪霊が持ち出すことのできる最後の手段であり、これこそが罪と死と滅びの最後のシンボルであり、もはやその先には何もなかったということもまた事実でした。

このあと三日目にイエスは復活されます。イエスの復活は古き罪の世界に生きる人間たちの最後の最大の手段でさえ神の力によって打ち破られてしまったことを証しする出来事です。そして、それはまた悪の力が最終的に打ち破られてしまったことを告げる出来事です。

しかし、私たちは今がまだ金曜日の夜であることをしっかり心に留めておかなければなりません。復活による新しい命、神の真の力が明らかにされる日曜日の朝よりも前の時点に今私たちは立っているのです。今はなお私たちの内と外とに古い世界が息づいており、闇の力、罪の力がうごめいている時であることを、私たちは知らなければなりません。レントの最後の週、最後の日々にあたって、私たちは私たちの内部に潜んでおり、また私たちの周囲に荒れ狂っている悪霊の存在とその働きに目を向けなければならないのです。

私たちにとって、そしてこの世界のすべての人々にとってイエスの復活がもたらす喜びを本当に喜び感謝するためには、罪と死と滅びの古い世界が二千年前に存在し、今もなお残っているという事実を冷静に見つめなければなりません。そして、そのような世界がイエスの復活という出来事を通して根本的に打ち破られてしまったことを告げる福音が、すなわち新しい世界が静かに着実に、そして決定的な形で始まったことを告げる福音が、私たちのもとに届けられる三日目の朝を待たなければならないのです。

 

レントのこの最後の日々、深まりゆく闇と墓の中に納められたイエスの遺体を心に覚えながら、私たちは復活の朝、三日目の朝を待ち望みたいと思います。