「同じ霊、同じ模範」

          コリントの信徒への手紙二 121418節 

                     水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の12章の14節から18節です。

教会の目的は伝道することにあります。伝道というのは、一言で言えば、神の福音を宣べ伝えることです。

パウロはローマの信徒への手紙の10章の15節で伝道する者の働きを語って、次のように賛美しています。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか。」

伝道というのは確かに美しいことです。しかし、実際に伝道が行われるときには綺麗事だけでは済みません。例えば、伝道するにはお金が必要です。そのお金はどこから持ってくるのか、誰が負担するのか、そういう具体的な話はいつもつきまといます。そのために不必要な混乱が起こることもあるでしょう。

パウロのような人でも、そのことについての清潔さをコリントの教会の人々から疑われることがありました。そこでパウロは、自分の願いが何に向かっているかを明らかにしようとしました。

今日の聖書の14節の前半にこうあります。「わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。」

パウロの伝道にははっきりとした目的がありました。それはコリントの教会の人々を得ることです。コリントの教会の人々を得るのはもちろんパウロ自身の手柄のためではありません。キリストのためです。

福音書を読むと、イエスはペトロたちを召して弟子とされたときにこう言われました。マタイによる福音書の4章の19節です。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」「人間をとる」というのは、人間を神のものとするために得るということです。

パウロが、わたしが求めているのはあなたがた自身だと言ったのも、コリントの教会の人々をキリストのものにしたいということです。

私たちがキリスト者になるということ、それはキリストのものになるということです。救われて、キリストにある生活ができるようになるということです。

このときにパウロがコリントの教会の人々から受けていた非難は決して生易しいものではありませんでした。

16節から18節にこうあります。「わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたをだましたでしょうか。テトスにそちらに行くように願い、あの兄弟を同伴させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたでしょうか。」

これはパウロがコリントの教会の人々からどんな目で見られていたかを示しています。パウロはお金をだまし取るために伝道しているのではないか。そういう疑いの目で眺める人々がいたのです。これが誤解であることは言うまでもありませんが、しかし、信仰上のことが時としてはここまで来ることがあったのです。

それに対してパウロは14節の後半でこう言っています。「子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。」

パウロはコリントの教会の人々の非難に怒ることもせず、自分とコリントの教会の人々との関係は親子のようなものであるから、伝道に必要なお金は親であるわたしが出そうというのです。

ある人は、これは聖書の中で最も優しい言葉の一つだと言います。それは、不当な非難をするコリントの教会の人々に対して、パウロが親子の親しさと愛を示そうとしているからです。

パウロが「親子の関係のようだ」と言ったことは口だけのことではありません。

15節の前半にこうあります。「わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。」

「あなたがたの魂のために」とあります。これは言い換えると、「あなたがたの信仰のために」ということです。それをさらに広げて言うと、「あなたがたの救いのために」ということです。パウロはコリントの教会の人々の魂のために、信仰のために、救いのために、自分の持ち物と自分自身を使い果たそうというのです。

では、その結果、どうなったのでしょうか。

15節の後半にこうあります。「あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。」

残念なことですが、悲しい結果に終わりました。
 しかし、こういう大きな困難の中にあっても、パウロは望みを失いませんでした。

18節にこうあります。「わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだのではなかったのですか。」

われわれは、今は同じように歩むことができなくなっているけれども、かつては同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだではないかというのです。「同じ霊」とは聖霊のことです。「同じ模範」とはキリストのことです。

私たちキリスト者にとって大切なことは、お互いの気持ちを合わせることだけではありません。そうするための基になるものがなければなりません。それは聖霊とキリストです。聖霊とキリストに従うからこそ、私たちは心を一つにして歩むことができるのです。

聖霊とキリストに従うことからはもう一つ大切なことが生まれてきます。それは自分を捨てることです。

マタイによる福音書の16章の24節を読みますと、イエスは弟子たちに自分を捨てることをお求めになりました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

私たちが心を一つにして歩むことができるのは聖霊とキリストに従う者が自分を捨てるからです。

パウロは「コリントの教会のために自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たそう」と言いました。彼は教会のために自分を捨てる覚悟でいます。コリントの人々よ、あなたがたもかつてはそうだったではないか、それを思い起こしてほしいというのです。

 

私たちは今日の聖書から、はじめの教会においても、その信仰生活が決して単純ではなかったことを知らされます。殊にパウロとコリントの教会の人々との間に悲しい誤解があったことは私たちの心を痛めます。けれども、おそらくどの教会においても多少の差はあれ、似たような問題があるのではないでしょうか。そのとき、大事なことは、各々が聖霊とキリストに従い、自分を捨てて歩むことです。信仰の大もと、土台に立ち返ることです。これこそ教会にとっての勝利の道なのです。