「キリストの十字架と復活」

          コリントの信徒への手紙二 1314節 

                    水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の13章の1節から4節です。

前回学びました12章の19節でパウロはコリントの教会の人々にこう言っています。「あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。」

あなたがたから見ると、わたしはいつも自己弁護ばかりしているように見えるだろうというのです。

私たちは長い間この手紙を読んできましたが、私たちの印象もまた、パウロがいかにも受け身で、弁解ばかりしているように見えたのではないでしょうか。その弁解は前回言いましたように単なる弁解ではないにしても、コリントの教会の人々はそこにパウロの弱さを感じたのではないかと思います。

ところが、この13章に入りますと、パウロの態度は全く変わったように見えます。

1節にこうあります。「わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。」

これはマタイによる福音書の18章の15節以下に書かれていることと同じです。マタイによる福音書の18章の15節以下には、教会において罪を犯す者があった場合、これをどう扱うかということが書かれています。兄弟が罪を犯したなら、まず、その人と二人だけのところで忠告します。もしその忠告を聞き入れたら、教会はその人を罪から救い出したことになります。しかし、もしその忠告を聞き入れなければ、二人または三人の証人によって事実を確認し、それでもなお忠告を聞き入れなければ、その人に対して何らかの処置を行うのです。

パウロが処置を行おうとしているのは2節の「以前罪を犯した人」に対してです。「以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。」

「前もって言っておいたように」とあるように、パウロが行おうとしている処置は今に始まったことではありません。それは忍耐に忍耐を重ねた上でのことでした。

教会は愛の場所であって、そこで罪を犯した人に対する処置が行われるなどいうことは考えられない、というのが一般的な考え方かもしれません。もちろん、そのようなとき、何よりも大切なのは、罪を犯した人を処置することよりも、その人を罪から救い出そうとすることです。しかし、その人がどうしても聞き入れないときは、教会は何らかの処置を行わなければなりません。

なぜ、パウロはそのような処置を行おうとするのでしょうか。

3節の前半にこうあります。「なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。」

パウロはこれまでコリントの教会に対して福音を語り続けてきました。そこには人々の気にいることもあれば、気に入らないこともあったでしょう。気に入らないことがあったときには、「キリストは本当にあなたによって語っているのか」と言って問われたでしょう。

福音を語る者に問われることは、あなたの語っていることは本当か、ということです。キリストは本当にあなたを通して語っているか、ということです。つまり、その人に福音を語る資格があるか、ということです。コリントの教会の人々の中にはパウロを使徒として認めない人々がいたのです。だから、容赦しないということにまで話が進んだのです。

3節の後半にこうあります。「キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。」

キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく強い方だ、だからわたしもあなたがたに対して強くあろうとしているのだというのです。

パウロはコリントの教会の人々に対して、弱く出ることもあれば、強く出ることもあったでしょう。そのことは、それを受けるコリントの教会の人々の間では、果たしてキリストは弱い方なのか、それとも強い方なのか、ということになったでしょう。キリストはどんなことでも許す弱い方なのか、それともご自分の考えを貫き通される強い方なのか。

私たちはどう考えるでしょうか。キリストは弱い方なのでしょうか。それとも強い方なのでしょうか。弱い方だとすれば、それはどういう意味で弱いのでしょうか。強い方だとすれば、それはどういう意味で強いのでしょうか。パウロはそのことを伝えようとしているのです。

4節の前半にこうあります。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられました」。

「弱さのゆえに」とありますが、これはどういう意味でしょうか。

ある人がこう言っています。「罪がキリストを嘲った。罪がキリストを打ちのめした。罪がキリストを鞭打った。罪がキリストにつばきした。そして、罪がキリストを十字架にかけた。それほどにキリストは弱かった。」

そのキリストが「神の力によって生きておられる」とパウロは言います。

4節の前半にこうあります。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです」。

「神の力によって生きておられる」。これはキリストの復活を指しています。全き弱さの中にあったキリストが神の力によって復活させられ、今も生きて働いておられるというのです。私たちはこれによって、私たちキリスト者の弱さと強さとがどこから来るのかが分かります。

4節の後半にこうあります。「わたしたちもキリストに結ばれて弱い者です」。

私たちは自分の罪に気づかされたとき、自分の弱さを知って嘆き悲しみます。けれども、その弱さは単なる弱さではありません。そのとき、私たちはキリストの十字架に結ばれます。自分の弱さが、罪人である自分の弱さであることが分かるようになります。

しかし、私たちは弱いままではありません。

4節の後半にこうあります。「しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」

神は私たちを復活のキリストと共に生かしてくださるのです。私たちキリスト者には、十字架のキリストと結ばれているゆえの弱さ、復活のキリストと共に生きているゆえの強さ、この両方があるのです。

パウロはこれまで様々な方法をもってコリントの教会の人々の信仰を励ましてきました。そして、最後に言いたいことを言いました。キリストの十字架と復活、それがわたしを生かし、あなたがたを生かしているのだ、このことを知って神の救いを侮らない生活に励んでほしいというのです。キリストの十字架と復活、これこそ私たちの信仰生活を支えるものなのです。