「試練と忍耐」

          ヤコブの手紙114節 

                   水田 雅敏

 

今日からヤコブの手紙をご一緒に学んでいきます。

今日の箇所には試練の問題が取り上げられています。試練は地上におけるキリスト者の歩みに必ずつきまとうものと言ってよいものです。私たちの信仰を揺さぶるものとしての様々な艱難や困難や苦しみ、それが試練です。しかし、それは同時に誘惑と呼ばれることもあります。では、試練と誘惑とはどう違うのでしょうか。

外見的にはいずれもキリスト者を苦しめるものとして襲ってきます。これは試練でありこれは誘惑だということがはっきりと分かる形で起こってくるわけではありません。人の目にそれは簡単に見分けがつかないものだと言うほかありません。キリスト者自身のその事柄への関わり方や姿勢、神との結びつきの中でその事柄に当たっていくか否か、その事柄の奥にあるものを探ろうとしながらそれを担っていくか否か、それによって事柄が試練としての働きをしたり、逆に誘惑という結果に終わってしまうという違いが生まれてくるのです。

試練はキリスト者を鍛え、成長させ、新しい命を約束された者にふさわしくしていく神の創造的な御業です。そこでは私たち人間には苦しみや辛さという否定的な面が強く表れてきますが、それは神の恵みの賜物であり、神から来るものです。偶然に起こる出来事という形を取ったり、悪しき人間の仕業のように見えることがしばしばありますが、試練は神から来るものです。

それに対して誘惑は、むしろ悪意を持った者がキリスト者を神から引き離そうとし、罪へと滅びへと誘うものです。それは神から来るものではありません。艱難の中で神から目を離させようとするもの、そして目を離してしまうときに神御自身からも離れてしまうもの、そういう力として働くのが誘惑です。キリスト者もしばしばこの力に負けてしまって、神なき人生の楽しみへと陥ってしまうのです。

私たちが艱難や苦しみに出会うとき、それは神が自分に特別にまなざしを向けてくださり、神のもとに近づけようとしてくださり、救いを確実にしようとしてくださっているものとしてそれを受け止めるならば、その艱難や苦しみは試練の役割を果たすものとなります。

そのとき、ヤコブが2節で言う「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」という言葉の意味が分かってきます。試練が喜びと結びつくのです。

試練は私たちに信仰があるかないかをテストして私たちを振り分けるためのものではありません。それは神が私たちに特別な関わりを持とうとしておられることの表れです。信仰があるといっても、まだまだ混ざり物を含んでいる私たちの信仰を、ただ一筋にイエス・キリストに向けられた信仰とするための、神による精錬、それが試練です。

イエス・キリスト御自身が受けられた試練に目を向けるとき、私たちも神の特別な相手とされていることを知らされます。神が特別に自分に目を向けてくださっている、そして自分をいよいよ神に近づけようとしていてくださっている、そういうものとして試練を受け止めるとき、その艱難は試練としての役割を果たします。それが喜びに結びつくのです。

2節に「いろいろな試練」とありますように、それは決して単純な画一的な試練ではありません。いろいろな試練があるということは、それに耐え抜いたとき、いろいろな恵みに与るということです。

様々な試練が私たちを襲うということは様々な祝福が神によって用意されているということでもあります。病があり、失敗があり、不幸があり、様々な試練が私たちの上に覆いかぶさってきます。しかし、それと同時に、それらは神の恵みの多様さを示す働きをしているのです。

旧約聖書の詩編の139篇の17節から18節に次のような言葉があります。「あなたの御計らいは わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒のように多く その果てを極めたと思っても わたしはなお、あなたの中にいる。」神の計らいは、数えようとしても数えきれない、数え尽したと思っていても、まだ神の計らいは自分に対し数多く与えられている、試練を通して私たちはそのことへの思いを深められるのです。

ヤコブの手紙に戻りますが、さらに続いて試練と忍耐とが結びつけられています。3節にこうあります。「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。」

忍耐とは、ただじっと我慢し、辛抱し、貝殻の中に閉じ込められたように何もしないということではありません。そういう時が必要な場合もありますが、もっと積極的に、艱難の打開と克服のために神の御心を問いながら直面している事態と取り組んでいく、そういう積極的な面を含んでいます。そうするとき、私たちは信仰的に何か新しいものを捉えることができる者とされるでしょう。

また、忍耐を通して、神を信じる者がどのような信仰を持っているかという信仰の証しをすることも、そのときに可能になります。神を信じることがどれほどの力であるかということ、イエス・キリストが共にいてくださるということを確信することがどれだけその人を耐えさせるかということ、それを証しする機会ともなりましょう。

さらに、今の試練に耐え、それを乗り越えることができたとき、次にもっと大きな艱難が襲って来たときに、それに耐えられるものがそこに造り上げられるということが起こります。将来の大切な神の御用のための鍛錬、その時への備えとしての今の試練、忍耐の中ではそのようなことも起こるでしょう。

神はこうして私たちを鍛錬してくださるのです。それによって私たちをさらに御自分のものとして力強く保とうとしてくださっているのです。そのことが試練と忍耐を通して私たちに示されることです。

しかし、それだけでは終わらずに、試練はキリスト者を次のような人へ育てていくと4節に書かれています。「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」

ここで言われている人、「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」とはどのような人なのでしょうか。そういう人が果たして存在し得るでしょうか。道徳的、倫理的に完全無欠の人という意味で、これが語られているのでしょうか。

むしろこれが意味することの一つは終末的な意味合いにおいて語られていると思います。つまり、試練を通し忍耐をもって生き抜いた人が、終わりの時に神の前に完全で申し分なく何一つ欠けたところのない人として、神によって喜び受け入れられるという約束が、こういう言葉で語られているということです。試練と忍耐はそのようなキリスト者を造り上げていくのです。

しかしまた現在のこととして考えるならば、「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」というのは、あらゆることにおいて神の御心を捉えようとする者、神の御心と確信できる事柄に全力投球しようとする者、たとえそれが失敗に終わってしまうことがあったり、あるいは御心と捉えたことが間違ったりすることがあったとしても、何をするにも神に問い、神に従うことを第一とする人、それがここで言われている「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」ということではないかと思います。

旧約聖書のゼカリヤ書の13章の9節に次のような言葉があります。「彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え 『彼こそわたしの民』と言い 彼は、『主こそわたしの神』と答えるであろう。」

人が神の名を呼べば、神はその人に対して「あなたこそわたしの民だ」と呼んでくださる、そしてその人は「あなたこそわたしの主だ」と喜んで告白できる、そういう関係の中で生きようとする人になっていく、その過程を辿る人が、ここで言われている「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」ということだと思います。

キリスト者は試練と忍耐を通して成長の道を歩んでいきます。その途上にある人を聖書は「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」と呼んでくれているのです。その光栄を私たちは覚えたいと思います。

さらに、自分のことだけでなくて、試練の中にある他者のために思いを寄せる、その人のために祈り、また共に重荷を負い合う者とされていくこともまた、「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」になっていくことの中に含まれていると思います。信仰に生きることの中には必ず他者が含まれるものです。他者を視野に入れない信仰はあり得ません。忍耐はそういうキリスト者を造り上げていくのです。

 

私たちはこのような生き方をイエス・キリストに支えられ導かれながら行うことができる者とされます。先立ち行かれる主の御足のあとに従って行こうとする誠実さがその人を育てていきます。神が求めておられるなら信仰の成長のために励もうとする熱い祈りを、神はお喜びになります。私たちはこの祈りをもってこの週の歩みを始め、また貫きたいと思います。