「平和を保ちなさい」 

          コリントの信徒への手紙二 131112節 

                     水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はコリントの信徒への第二の手紙の13章の11節から12節です。

11節でパウロはこう言っています。「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」

「終わりに」とありますが、これはどういう意味でしょうか。これまでいろいろなことを語ってきたけれども、まだこれが残っているということでしょうか。そうではありません。このあとに書かれていることは、残っていることとしてついでに語られるようなことではなくて、私たちの信仰生活にとってとても大切なことです。一つ一つ見ていきたいと思います。

まず、「喜びなさい」とあります。パウロが最後にどうしても言っておかなければならないことの一つは「喜ぶ」ということです。

私たちの信仰生活の特徴の一つは喜びにあります。信仰生活というのは救われた者の生活です。神に救われたゆえに喜ぶのです。そうであれば、その喜びは勝利になるはずです。なぜなら、自分の罪に向き合い、死に直面して勝利するには神の救いしかないからです。ですから、その喜びは、人生の一番深い事実に出会いながらそれに打ち勝った者の喜びです。

私たちはイエス・キリストと出会いました。イエス・キリストの存在を知りました。それは神の恵みを知っているということです。神が私に対して変わることのない好意を持っておられることを知っているということです。私たちの人生は暗い運命のようなものに捕らえられているのではありません。神の愛によって支えられています。これを知ったとき、喜ばずにはいられないのです。

次に、「完全な者になりなさい」とあります。

私たちは神を信じているのだから神のように完全な者にならなければならないと思うことがあります。しかし、ここで言われている「完全な者」というのはそういうことではありません。「完全」というからには何か目標があるはずです。それは神がイエス・キリストを通して与えてくださった救いを成就することです。それには私たちの力は役に立ちません。神の力によらなければなりません。

それでは、救いが成就するまで私たちは何もしないのでしょうか。そうではありません。「励まし合いなさい」とあります。

この「励ます」と訳されているもとの言葉には「慰める」という意味があります。人間の励ましというのはたかが知れています。確かな根拠がなければ何の力もないのです。励ましが力を持つには信仰による慰めが必要です。神の恵みを受け、イエス・キリストに結ばれることによって、互いに慰めることができるのです。

「思いを一つにしなさい」とあります。「思いを一つにする」というのは信仰を一つにするということです。信仰による一致です。

教会はキリストの体です。私たちはその枝です。キリストの体として教会が立ち続けていくためには信仰による一致が大切です。例えば、私たちは礼拝で使徒信条を告白します。それによって同じ信仰を言い表します。それは私たちの信仰の一致を表すものです。

「平和を保ちなさい」とあります。

ある人は、思いを一つにすることから平和を保つということも出てくると言いました。その通りだと思います。教会の平和は信仰の一致から生まれるのです。

それと共に、この「平和を保つ」というのは私たち一人一人が神との間に平和を得ることです。

ローマの信徒への手紙の5章の1節でパウロはこう言っています。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」。

「信仰によって義とされた」とありますが、これは信仰によって神との関係が正しくなったということです。信仰によって神との関係が正しくなるとき、私たちは平和でいることができるのです。

今日の聖書の12節にこうあります「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。」

この「聖なる口づけ」はただの口づけではありません。当時の礼拝において儀式として行われたものです。パウロは多くの手紙を書きましたが、それらは皆、教会の礼拝で読まれることを予想して書かれたものです。当時は手紙を書くことが大変困難でした。紙もインクも今のように多くはありませんでした。ですから、手紙は大変貴重なもので、それが送られてきたら、皆で読みました。そこでパウロはこの手紙が読まれる礼拝において何をすべきかを改めて教えているのです。

パウロは「すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです」と言って聖なる者たちの挨拶を伝えます。「聖なる者」とはすべてのキリスト者のことを指しています。罪がないから「聖なる者」と言われているのではありません。キリスト者も罪ある者です。そういう者たちがキリストに救われて神のものにさせられたから「聖なる者」なのです。その聖なる者たちが「よろしく」と言ってコリントの教会の人々に挨拶しているのです。

神による平和は、一つの教会の中にだけあるのではなくて、各々の教会の間にあるものでなければなりません。キリストの体である教会というのは一つの教会だけのことではありません。すべての教会とキリスト者が一つになってキリストの体を形作るのです。

 

このコリントの信徒への第二の手紙は嵐の吹きすさぶような手紙でした。そこには伝道者パウロの壮烈な戦いが書かれていました。コリントの教会が持っていた様々な課題が明らかにされていました。しかし、パウロはいつものように神による平和を願ってこの手紙を終えようとしています。それが御心であることを知っているからです。あるいは、この激しい手紙の中に神の平和が満ちていると言いたかったのかもしれません。