「神の祝福の入り口」

           ヤコブの手紙1911節 

                  水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヤコブの手紙の1章の9節から11節です。

ヤコブははじめに、貧しい兄弟へのメッセージを語っています。9節にこうあります。「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。」これは何を言おうとしているのでしょうか。「貧しい兄弟」とありますが、貧しさといっても様々です。この「貧しい」という言葉は、社会的に弱い立場にあるという意味を持っていますから、社会的な意味での貧しさということがまず考えられます。そしてそれと関連して言いますと、お金や財産や持ち物といった物質的な面での貧しさということも、当然この言葉は含んでいるでしょう。あるいは知的な面を十分に備えていない貧しさということも考えられます。さらには感性の面、豊かな心や感受性、想像力が足りないといった貧しさもあるでしょう。もっと考えるならば、人間関係において人から好かれるものや愛されるものを持っていないことの貧しさもありますし、あるいは家族関係における貧しさを抱えている人、これもまた貧しさの中に含まれるかもしれません。

ヤコブはそれらの貧しさが造り出す神との関係に目を向けて何事かを語ろうとしています。人間に付属している何ものかによって人間の価値が判断されるのではなくて、置かれている環境や自分にどうしようもなく付属している事柄の中で、神との関係をいかに見出していくか、それがその人の生と死の価値を決定づけるものである、そういう視点に立って語っています。つまり、様々な面で貧しさを抱えている人は自らの弱さを知ることができる、自分自身の中に頼るべきものがないことを痛感させられる、自分以外のもっと絶対的なものに自分を委ねようとする思いを持つことができる、そのことがその人の中にイエス・キリストが入って来てくださる入り口の役割をするというのです。貧しさは、神を閉め出す働きをするのではなくて、逆に神が宿る場所となるのです。それがその人が「高められる」ということの意味です。そしてそのことを「誇りに思いなさい」、つまり、そのことを喜びなさいとヤコブは勧めているのです。当時の人々は、貧しいということは神によって顧みられていないこと、神によって呪いを受けていることのしるしだと考えていました。そういう中でヤコブは逆にその貧しさを神の祝福の入り口として捉えているのです。

コリントの信徒への第2の手紙の8章の9節に次のような言葉があります。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」主は豊かであられたのに、私たちのために貧しくなられた。イエス・キリストがお生まれになったとき、家畜小屋に寝かされる場所しかなかった。十字架の上で犯罪人として殺される死を迎えられた。この主の貧しさは様々な貧しさの中にある私たち一人一人に寄り添うための貧しさでした。私たちは今、一人一人それぞれ固有の貧しさの中でそれを苦しみ嘆くことはあっても、むしろそこにおいてイエス・キリストが私たちに近づき、私たちを支え、担ってくださっていることを知るとき、私たちは貧しさの中で主によって自分が高められていることを知って喜ぶことができる者とされるのです。主の御手によって私たちは貧しさという低さの中で高く持ち上げられているのです。

さらに、この「高められる」ということの中には終末的な救いの内容が含まれています。フィリピの信徒への手紙の2章の8節から9節に次のような言葉があります。キリストは、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」9節に「キリストを高く上げ」という言葉が出てきます。この場合の「高く上げる」というのは「新しい命に移される」ということを意味しています。キリストが高く上げられる、それと同じことが私たち貧しい者にも起こるのです。この約束に基づく確かな希望こそが、ヤコブの言う「誇り」、すなわち喜びの源になっているのです。

このように、貧しさそのものは克服されたり、他者の援助を必要とするものですが、神との関係で自分の貧しさを知るときに、そこに新しい世界が開かれてくることが分かります。とりわけ死という出来事においては人間の力はまったく貧しいものです。何もすることができません。しかし、死という出来事の中においても、その死を復活の主に委ねることができるとき、それは高められます。すなわち、この世のものからは得られない希望がそこに約束されているのを知ることができます。そう思うときに、死の貧しさの中で私たちはなお喜ぶことができるということを教えられるのです。

次の10節には「富んでいる者」に対する言葉が語られています。まず10節の前半にこうあります。「また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。」この「富んでいる者」というのは自分の命や自分の存在の保障を地上の何ものかによって得ていると思っている人々のことです。そのために地上の富をなお求め続けることはあっても、それとは別の次元のもの、地上の富を超えたものを自分の生きることとの関係の中で求めようとはしません。この場合の地上の富というのは、はじめに貧しさということで捉えたこととは逆のことをその内容として考えていただければよいでしょう。

このような富んだままである人がそのままで自分を誇りなさいとはヤコブは語っていません。「自分が低くされること」とあります。すなわち、この富んだ状態の中で自分が手にしている様々なものに自分の命を委ねることの愚かしさを知ること、あるいは実際にそれを失うときにそれらのものが人間の命の保障としては何一つ役に立たないものであることに目覚めさせられること、それらのことが生じたならば、それを「誇りに思いなさい」、すなわち、それを喜びなさい、このように語っています。

富んでいる者が持っている貧しさというものがあります。それはこの世の富と呼ばれるものに執着し、それから自分を引き離すことができずに、真に自分の命を託すべき神を見出すことができないという貧しさです。そのように富んでいる者が、自分が担ってきたものが最終的には自分を担うものとはならないのだということを知るときに、そしてそれによって真に自分を最後まで担ってくださるお方がおられるということに目覚めるときに、それが自分が低くされることであり、もしそのことが起こればそれを喜びなさいとヤコブは言うのです。

富が頼りにならないことを知ることはつらい瞬間であるかもしれません。あるいは、せっかく貯めたものが自分の命の保障にならないということを知るときに大きな挫折を味わうことがあるかもしれません。しかし、それは神の前にあっては喜ぶべきときなのです。なぜなら、それは真の富を手にすることができるときがその人に来たからです。そういう意味で、富んでいる者は自分が低くされることを誇りに思いなさいと語っているのです。

ヤコブはさらに10節の後半から11節で富んでいる者を地上の草花に譬えて次のように語っています。「富んでいる者は草花のように滅び去るからです。日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。」

この「草は枯れ、花は散る」という言葉は聖書のほかの箇所にも幾つか出てきます。一つはイザヤ書の40章の6節から7節です。「肉なるものは皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。」また詩編の103篇の15節から16節にこうあります。「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ 生えていた所を知る者もなくなる。」さらにペトロの第一の手紙の1章の24節にこうあります。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。」

ヤコブはそれらと同じ言葉を用いながら、それを富んでいる者に当てはめています。パレスティナの美しい草や花が南東から吹きつけて来る熱風によってたちまち枯れてしまうことがあるように、人の富も富んでいる者自身も一時的なものであって、地上の出来事によってあとかたもなく消えうせてしまう、死の出来事が端的にそれを表すのだと言っています。

ここで注目したいのはヤコブが引用した言葉のそれぞれの続きに次の言葉が書かれていることです。まずイザヤ書ですが、その40章の8節には「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とあります。詩編103篇の17節には「主の慈しみは世々とこしえに主を畏れる人の上にあり」とあります。ペトロの第一の手紙の1章の25節には「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」とあります。イザヤにしても、詩編にしても、ペトロの第一の手紙にしても、そのあとに永遠に続くもの、永遠に存続すると語った事柄の内容が神の言葉である、主の慈しみであるということを、それぞれの所で明らかにしています。

ヤコブはそこまでは引用していません。しかし、それを引用しないことによって、むしろ永遠に変わることのないものは何かをこの手紙を読む者に問わせていると思います。草は枯れ、花は散る、それでは枯れないもの、散らないものは何か、あなたがたはそれについて既に聞いているはずだ、それはわたしたちの神の言葉だ、その神の言葉に込められている神の慈しみと愛は決して永遠に変わることのないものだ、それを思い起こしなさいとヤコブはあえて先の言葉を引用しなかったのだと思います。ヤコブは、語らないことの中にわたしたちが忘れてはならないことがあるのだということを、私たちに気づかせようとしているのです。今は見えないけれども確かに私たちの心に響いてくる神の言葉において豊かに富む者になるようにと私たちをその世界へと招くのです。

 

死のあとにも地上の富と異なる喜びを約束してくださるこの神に希望を置く、そういう生涯を送るようにと私たちは語りかけられています。このような生を全うするとき、私たちの地上の命は朽ち果てても、死に行く本人だけでなく、共に生きたすべての人々がその死を感謝をもって受け入れることができる者とされるでしょう。草は枯れ、花は散る、しかし、神に希望を置く人は永遠に生きるのです。