「命の冠をいただく」

           ヤコブの手紙11215

                  水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヤコブの手紙の1章の12節から15節です。

12節にこうあります。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」

「試練」というのは、既に1章の2節以下でご一緒に学びましたように、私たちの信仰を鍛錬し成長させるために神から与えられるものです。それは多くの場合、艱難や困難、苦悩といった形をとって私たちに降りかかかってくるものです。しかしそれは、人に罪を犯させるように働くのではなくて、逆にいよいよ神に堅い信頼を寄せて生きていくことを教えるためのものです。場合によってはそれは私たちに物質的な危機を生じさせることもあるでしょう。あるいは精神的に、さらには信仰の面においても深刻な危機的な状況を生じさせることもあるでしょう。しかし、それを切り抜けることができたときには霊的に強められ、豊かにされて、神の国の一員としてふさわしい者へと整えられる、神にあって生かされることの喜びが増し加えられるということが起こるのです。

それらの人々には「命の冠」が約束されているとヤコブは言います。「命の冠」とは新しい命のことです。それを「いただく」とは救いが確かなものとして神によって保証されているということを意味しています。

私たちそれぞれにも今日までの信仰の歩みにおいて様々な試練が襲ってきたに違いありません。信仰がぐらつくこともあり、神に対する疑いや怒りさえ覚えたことがあったでしょう。そのようなことを経験しながら、しかし神の御手は私たちを離さずにしっかり捕らえていました。そのことによって私たちの信仰は少しずつ練り上げられ、鍛えられて、神に近づくことができる者とされました。試練のさ中ではそれが神から来たものであるとは思えないことが多いでしょう。しかし、時が来ると神の御心が分かってくる、そのようにして私たちの信仰が強められる、それが試練です。

このように、私たち人間には神のなさることを何とか捉えようとする、あるいはついには神の御心が分かるというように神に呼応できる、神に応答できる霊的な面が備えられています。聖霊の助けと働きを受けて、「イエスは主である」と告白することができる面を持っています。何とかして御心を捉えようとし、新しい命を求めて生きようとするひたすらな面を与えられています。人間にはそういう面が誰にでもあります。神に向き合うことができる面を人間は持っています。

しかし、それだけではありません。人間はもう一方で神に逆らう肉的な面も兼ね備えていることを認めざるを得ません。神から自由になろうといつも身構えている、そういう欲求が人間の内側にはあります。自分自身が神のようになり、神を思い通りに支配しようとする欲求を持っています。あるいは神の僕として仕える生き方をするよりも地上の様々な宝を積み上げることに喜びを見出す、そういう欲望も人間にはあります。すぐには行動に移すことはなくても、人間の内側には様々な欲望が渦巻いているのです。

この欲求や欲望が何者かによって、14節の言葉によれば、「唆されて」、それが行動に移され、その人自身の生が神から離れてしまう、そういう傾きを起こさせる面が人間にはあります。

このように、すべての人間が霊的な面と肉的な面、神に向き合い神に応答できる面と神から離れようとする面、その両面を持っています。そしてこの肉的な面に傾いてそれが支配的になってしまう生き方、そういう状況に置かれることを、聖書は「誘惑」に陥ることとして描いています。試練が私たち人間をいわば外側から襲うのに対して、誘惑は人間の内側に侵入し、私たちが持っている様々な具体的な欲望を刺激して、人間をその欲望のままに走らせてしまうのです。

その欲望とは地上の富や物質に対するもの、社会的な名誉や賞賛に関するもの、虚栄、虚飾に向かうものなど様々ですが、普段は隠れた形を取っているものが表に現れて、ついにはその人の生き方そのものになってしまう、そういうことがあり得ることを聖書は語っています。欲望がその人の意志そのものとなってその人の人生全体を支配するものとなってしまう、それが誘惑に陥っている人の生き方です。

このように誘惑に陥ったままだとその行く末はどうなるのでしょうか。ヤコブは14節から15節で次のように語っています。「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」欲望はその中に罪をいつのまにか宿してしまいます。そしてやがてその罪を生み出します。さらには、その罪は大きくなって、力を増し加えて、ついには人の死を生み出してしまいます。つまり、人を死に至らせるということです。欲望―誘惑―罪―死という鎖がそこに出来上がっているのを見ることができます。

なぜ、それが最終的に死に結びつくのでしょうか。誘惑とは人を神から引き離すこと、神から引き離す力に屈するということです。そして神から離れるということは命から離れるということです。ですからそれは必然的に死に到達するほかないものです。たとえ人間的に成功を収めてこの世の喜びを満喫したとしても、神なしで歩んだ人生の行き着く先は死であり、滅び以外の何ものでもないとヤコブは言うのです。

試練は厳しくても耐えるならば、その人を命に導いていきます。誘惑はついにはその人を死に導いていきます。それではこのような恐るべき性格を持った誘惑はどこから来るのでしょうか。ヤコブは13節で、それを神のせいにしてはならないと語っています。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」

神は、人に試練を与え、人を鍛錬し、忍耐を養われることはあっても、人を誘惑して、その人を御自分から引き離してしまうことなどなさるお方ではないということが明確に語られています。そしてさらに、神は御自身、悪しきものに唆されて誘惑を受けられるようなお方でもないということもはっきりと語られています。神御自身の内には私たち人間が持っているような欲望はない、それゆえに誘惑を宿すことも神御自身の内にはないと語られています。神は、私たち人間を御自分に引き寄せることはあっても私たち人間を御自分の側から離れさせて死に至らせることをなさるお方ではない、イエス・キリストにおいて私たちに近づいてくださり私たちに真の命を与えようとしておられる神が人を死に至らせるような誘惑に導くことはない、人を死に至らせるような誘惑を人の上に臨ませることなどない、このことが断言されているのです。

それでは人をこのような死に至らせる誘惑とはどこから来るのでしょうか。ヤコブがはっきり述べているのは、14節に「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ」とあるように、人がその内側に抱え持つ欲望こそが誘惑の原因なのだということです。つまり、誘惑に陥るのはその人自身に原因があり、その人自身の責任なのだというのです。誘惑に心を許し、欲望に身を任せるあなた自身がその責任を負わなければならないのだ、その自覚を持つことができるか否かが人間にとってとても大切なことなのだというのです。

試練や誘惑のない人生はありません。欲望を何一つ持たない人間もいません。霊的な面を持たない人間もいませんし、肉的な面を持たない人間もいません。すべての人間に神の愛は注がれ、神の命への招きが差し出されていると同時に、すべての人間がその内側に抱えている欲望に悪しきものからの働きかけが常に襲っているのです。人間の存在、私たち一人一人の存在は、神の愛と悪しき誘惑の力、この神の愛と悪しき力とがせめぎ合っている戦場です。私たち一人一人の地上の存在は神とそれに反する力とが戦う戦場となっているのです。

 

神の愛を知った人は、欲望―誘惑―罪―死という鎖をどこかで断ち切ることが求められています。誘惑に遭うことが悪ではなくて、それに屈してそれに溺れてしまうことが神の嫌われる悪です。私たちはそうならないように戦わなければなりません。信仰の戦いなくして霊的に生きることのできる人は一人としていないのです。神の御手のみが誘惑から私たちを守ってくれる雄一の力です。ですから、私たちは神の助けを祈り求めましょう。必要な御言葉と知恵を祈り求めましょう。そのようにして神と私たちとが堅く結ばれるならば、たとえ私たちの内側に欲望が潜んでいたとしても、そこに悪しきものの立ち入る余地はなくなってしまうでしょう。そのことによって誘惑に屈しない歩みが可能となってきます。一人一人がそのように自分の欲望と戦うこと、神の御手によって悪しきものの誘惑に打ち勝つこと、このことが求められています。神は私たちに命を用意してくださっています。命の冠こそが私たち一人一人にふさわしいものなのです。