「神の憐れみ」

           ヤコブの手紙2813節 

                    水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヤコブの手紙の2章の8節から13節です。

ヤコブは8節から9節で次のように言っています。「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます。」

この手紙を受け取っている教会の一つの問題点は、これまでも何度か出てきましたが、富んでいる人と貧しい人とを分け隔てするということでした。富の多い少ないによって人を分け隔てることがなされていたのです。そのようなことは教会においてあってはならないことであり、そのようなことをしている人たちは律法によって違反者と定められるとヤコブは言います。

それでは人を分け隔てすることがどのような意味で律法の違反となるのでしょうか。

ヤコブがここで取り上げているのは「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めです。これは旧約聖書のレビ記の19章の18節に記されている戒めです。ヤコブはこの戒めを「最も尊い律法」と言っています。聖書の中で最高の位置を占める戒めだというのです。

この手紙を受け取っている教会においてこの「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めに従うことは、まず何よりも貧しい人たちを、助けを必要としている隣人として捉えて、彼らを愛すること、彼らに援助の手を差し伸べて共に生きる道を探ることを意味していました。ところが、この教会の人々は貧しい人たちを愛するどころか、富んでいる人たちに媚びへつらって貧しい人たちを分け隔てし、彼らをいっそう惨めな状況に追い込んでいました。

これは明らかに最も尊い律法に違反していることになります。教会の人たちはそのことに気づかなければならなかったのです。このことにおいてあなたがたは神の御心を痛めている、これが、ヤコブが教会の人たちに律法との関係で教えようとしている第一のことです。

10節にこうあります。「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。」

この手紙を受け取っている教会の人々は、自分たちがもし律法を守っていないということがあったとしても、それはほんの一部だけで、そのほかのことに関しては十分に律法を守っていると考えていたのでしょう。しかし、律法の一部を破ることは律法全体に対する違反と同じことだとヤコブは言います。これが、ヤコブがこの教会の人々に教えようとしている第二のことです。

自分の好みに任せてとか、自分の都合によってとか、自分の勝手な判断によってということで、律法の中の一部であっても、それを軽く考えたり、平気でそれに違反するようなことをするならば、ほかの点において律法を守っているとしても、それは律法全体への違反に等しいものなのだというのです。

このことを説明するのに、ヤコブは一つの例を挙げています。11節にこうあります。「『姦淫するな』と言われた方は、『殺すな』とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になるのです。」

「『姦淫するな』と言われた方」とありますが、これはイエス・キリストのことです。イエス・キリストは「殺すな」とも言われました。

イエス・キリストはその戒めを、単に殺人の禁止ということだけでなくて、霊的な意味が込められているものとしてお説きになりました。マタイによる福音書の5章の21節から22節に次のようにあります。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」

人の存在を否定すること、それは既に「殺すな」という戒めを犯していることになるのだとイエス・キリストは言われるのです。

この教えから見るならば、人を分け隔てすること、貧しい人たちを差別することは「殺すな」という律法を犯していることになります。そのことをヤコブは教会の人々に気づかせようとしたのです。

律法は全体が守られることにこそ意味があり、そこにこそ価値があると言われるとき、そのようにはできていない自分自身、律法に背いている自分自身というものが明らかにされます。そういう意味で、私たち人間は皆、律法の違反者と言われるほかない者たちです。皆が救いの失格者と言われるほかない者たちです。それは律法によっては私たち人間は救われないということです。律法を守ることによって神に受け入れられる道は閉ざされているということです。

ヤコブもそのことは十分に承知していたはずです。しかし、彼はそのことを認めながら、そのような私たち人間がなお生かされているのは、律法を完全に守ることができない私たちを神は赦し、憐れみをもって受け入れてくださり、神と人とを愛する者として生きるように常に私たちを差し向け、支えてくださるからだという事実に心を向けさせようとしているのです。神の愛、神の憐れみ、神の赦しによって、私たち人間が律法の違反者でありながら、なお神の前に立つことができる者とされている事実に目を向けさせようとしているのです。

それが、自由の律法に従って生きなさい、憐れみをもって生きなさいという12節から13節の教えです。「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」

わたしたちにはイエス・キリストを通して神の憐れみが注がれている、神の憐れみがわたしたちを内側から突き動かして新しい生き方を可能にするということを、ヤコブはここで語ろうとしています。

私たちは皆、律法の違反者であり、失格者です。しかし、そのような私たちに、神はイエス・キリストを通して赦しを与え、憐れみをもって私たちを御自分のもとへ招き返してくださっています。律法を完全に守れない私たちが、そのことから来る恐れや諦めや開き直りによってではなく、そのような者がなお赦されているのだから、神の新しい取り扱いを受けた者として、神の憐れみに促されて自由に決断しつつ、他者と共に神の御心に沿った生き方ができる、それが自由の律法に従って生きる私たちの生き方です。私たちの生き方を支えるのは、律法を守ろうと努めるときに私たちの中に起こってくる熱心や熱情ではなくて、それを守ることができない私たちをなお赦し、生かしてくださる神の憐れみなのです。その憐れみがさらに私たちを他者へと向かわせていくのです。

神の憐れみをもって生きるということは、単なる同情といったものではなくて、苦しみ悩む人の痛みを共に分かち合おうとする生き方です。イエス・キリストが傍にいてくださるならば、あの人もまた生きることができるとの確信をもってイエス・キリストを指し示していく生き方です。

マタイによる福音書の5章の7節でイエス・キリストは次のように言っておられます。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」

神はイエス・キリストを通して私たちに憐れみを与えてくださいました。私たちの命の中には神の憐れみが注ぎ込まれています。わたしがあなたがたを憐れんだのだから、あなたがたも憐れみをもって生きなさいと、神は私たちを促し、そのように命じておられます。それに聞き従うことが、律法を守れないにもかかわらず赦された私たちの新しい生き方です。

 

神の赦しへの信仰があるからこそ可能となる生き方というものがあることを私たちは受け止めたいと思います。またそのような生き方を私たちは実践したいと思います。律法の違反者であるとの痛みは痛みとして持ち続けなければなりません。しかし、それを超える憐れみを受けている私たちであるという喜びと感謝が私たちに新しい生き方を可能とします。またそれが他者との新しい関係を生み出す力となっていきます。そのような生き方へと召されていることを、今日私たちは心に深く受け止めたいと思います。