「生きた信仰」

           ヤコブの手紙21417節 

                  水田 雅敏

 

16世紀の宗教改革の時代に唱えられた合言葉の一つに「信仰のみ」というものがあります。これは信仰によってのみ人は救われるということを意味する言葉です。当時の教会においては人間の救いのために業や金銭が欠かせないと考えられる状況がありました。そのために、修道院に入って修道生活をすることが救いに結びつくと考えたり、金銭を支払うことによる懺悔の行為によって救いを買い取ろうとしたり、断食とか善い業とか功績を積み重ねることによって救いを確かなものにしようとする動きが盛んでした。それに対して宗教改革者たちは人間の業が人間を救うのではなくて、救いの主導権は神にあり、イエス・キリストを信じる信仰こそが不可欠だと主張しました。それが「信仰のみ」という短い言葉によって表されているのです。

この「信仰によってのみ人は救われる」という救いの理解は宗教改革者たちが初めて思いついたり作り出したものではなくて、聖書の信仰理解に一致したものでした。例えば、ローマの信徒への手紙の3章の28節でパウロは次のように言っています。「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」また、ガラテヤの信徒への手紙の2章の16節にこうあります。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」。いずれも、人が救われるのはイエス・キリストへの信仰によってのみであるということが明確に語られています。

神がイエス・キリストを通して私たち人間の救いの道を開いてくださった、神が私たちのために立ち上がり行動してくださった、人が神との関係を回復することができる道はすべて神によって備えられた、このことを信じ、受け入れ、このことにすべてを委ねること、これが救いに結びつきます。イエス・キリストにおける業はこの私のために為されたものであることを信じること、それが信仰であり、この信仰が私たちを神のもとへ回復させます。つまり、聖書の言葉で言えば、「義と認められる」のです。それが信仰によってのみ義とされるという信仰義認の内容です。それは神の側からの一方的な憐れみの結果です。人間の業や行いに先立って神の御業がなされた、その神の御業のみが人を救う力を持っているのです。このことを私たちはいつも心に刻んでいなければなりません。

それでは、このような信仰は、イエス・キリストを私の救い主として信じますと告白すれば、それで完結することになるのでしょうか。ある時点で、イエス・キリストを私の救い主として信じますと告白すれば、あとはもうどうなってもよいということになるのでしょうか。

それについてイエス・キリストは次のように語っておられます。マタイによる福音書の7章の21節にこうあります。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」

イエスをわが主、わが救い主として口にする者が神の国に入るということではなく、むしろ神の御心を行うこと、イエスを主と信じる信仰に立って御心を行う者こそが神の国に迎え入れられるというように、神の御心に適った行いをイエス・キリストは語っておられます。

また、ガラテヤの信徒への手紙の5章の6節でパウロは次のように言っています。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」パウロは、まずイエス・キリストを受け入れることが前提にあって、次にその信仰に立って生きることは愛の実践を伴うことなのだと述べています。

いずれも信仰と行いが結びついています。神が人間の救いのために必要なすべてのことを為してくださったからこそ、それを信じる信仰に生きる者には神への感謝の応答として他者のために生きる実践が生まれてこざるを得ないのです。

さて、今学んでいますヤコブの手紙の著者ヤコブは今日の聖書の14節で、「わたしの兄弟たち」と呼びかけて、「自分は信仰を持っていると言う者」たちに新たな問いかけをしています。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」

これは、この手紙を受け取っている教会のある特定の人たちに対する問いかけというよりも、この手紙の受取人である教会のすべてのキリスト者に向けられたものです。なぜなら、教会に集まっているキリスト者は皆、自分には信仰があると考えている人たちだったに違いないからです。その彼らに、自分は信仰を持っていると言うときのあなたがたの信仰はどんな信仰なのかとヤコブは問いかけているのです。

そして、「行いが伴わなければ」そのような信仰は「何の役に立つでしょうか」と問いかけ、さらに17節では「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と断言するのです。「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」

ここで行いが強調されていることは明らかです。しかし、注意しなければならないのは、ヤコブは行いを信仰から切り離しているのでもなければ、信仰と何か競い合うものして行いを語っているのでもないということです。彼は、行いというものを通して、信仰を持っていると言う一人一人のその信仰の質を問うているのです。つまり、生きた信仰とは何かということを問題にしているのです。

キリスト者の行いについて語るということはキリスト者の信仰そのものについて語ることと同じです。教会の業について語ることは教会の信仰について語ることになります。あなたの信仰は真に信仰と呼ばれるものに値するものなのか、神が喜ばれる信仰の内容を備えているのかと問いかけているのです。

そして、ここでヤコブが明確にしておきたいと願っていることを先に結論的に述べるならば、生きた信仰、それは神への応答、賛美、服従、そして献身のしるしとして、必ず何らかの行いが伴うものだということです。神が私たちの救いのために何をしてくださったかを真実に捉える信仰は、その神に支えられて、人を何らかの信仰の行いに押し出さずにはおかなくするものなのだということです。そして、その信仰の行いとはこの手紙を受け取っている教会にとっては何よりも兄弟姉妹への愛の実践として示されています。

このことをある人は次のように譬えています。「キリスト者の実践は神の御業という大きな木に結びつけられた枝に生まれる実のようなものだ。」神の大いなる業に結びつくときに私たちの小さな枝にも何らかの実が生まれるというのです。その実をヤコブは「行い」という言葉で告げているのです。

その行いは、私たち自身の救いを作り出すための行いではなくて、むしろ神のものとされた者たちに期待され、命じられ、そして神が受け入れようとしてくださる業であり、実践です。

そのことについてヤコブは15節から16節で具体的な例を挙げて教会の人たちに考えさせようとしています。「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。」

これは譬えなのか、それとも実際にあったことなのかはっきりしませんが、おそらくこれとよく似た事柄が教会において見られたのではないかと思います。ヤコブの手紙を受け取っている教会の人たちは、その日の食べ物にも事欠いている兄弟姉妹に何も物質的な助けを与えずに、「安心して行きなさい」と言っているのです。

ヤコブは「こういう信仰は死んだ信仰だ」と17節で言っています。「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」

あなたがたの信仰は生きていない、死んでいるというのです。

目を背けてはならない現実を目の前にして具体的な愛の行為を伴わないような信仰が死んだ信仰であるならば、そのような信仰しか持たない教会も死んだ教会と言われても仕方がないでしょう。私たちはどうなのか、私たちの教会はどうなのかと鋭い問いが突きつけられているのを覚えさせられます。神が私たちにしてくださったことを、今度は私たちが私たちの兄弟姉妹にしなければならない責任を、キリスト者は持っているのです。

キリスト者の交わりを基礎づけるものは私たちの人間的な思いとか人間的な感情ではありません。それは不安定なものですから、そういうものは交わりの基礎にはなりません。キリスト者の交わりの基礎、それは神がイエス・キリストにおいて為してくださり、神がイエス・キリストにおいて示してくださった愛と憐れみです。それがキリスト者の交わりを性格づけ、互いの関係の在り方を方向づけます。そして、それは同時にキリスト者の群れである教会のこの世に対する関わり方を決定します。

 

ヤコブが示す生きた信仰の在り方、それはイエス・キリストの愛と憐れみに基礎づけられています。ヤコブが生きた信仰として示す信仰の在り方、これによって地上の教会のすべては自らの在り方を吟味しなければなりません。そして、ヤコブが指し示す方向にいくらかでも歩もうとするときに、そこに教会の再生が起こってくるのではないでしょうか。私たちの教会にもそのことが主によって求められているということを覚えたいと思います。