「主の山に、備えあり」

     創世記22119

          大久保 直樹

 

最近ほんとに年を取ったなぁと思うことが増えました。①たとえば、若い頃、そうですね、今から30年以上前、20台前半とか、もっと前の高校生くらいの頃は今と比べれば、異常すぎるくらいに外見を気にしていましたね。髪型とか服装とか。しかも幸か不幸か、周りから見て素敵、格好いい、「うん、いいね!」と言ってもらったり見てもらったりすることは気にせず、自分の勝手なイメージに到達しているかどうかが問題なので、ひどい髪型だったり、変な服装だったのかも知れません。思い出すと一風変わった格好をしていたと思います。これ以上の恥さらしはやめておきますが…。ところが50歳も半ばが見えてくると、あっ、これはあくまでもわたし個人の問題です。50歳でも60歳でももっと年配の方でもダンディーな方いっぱいいますからね。…でわたしはと言えば、髪型や服装は今やどうでもよい域に達しようとしていると言っても過言ではないかもしれません。服もよっぽどサイズが合わらなくって着られなくなるとか、ボロボロに穴が開きまくってボツ!というのでない限り、買い替えることはありません。②他に、年を取ったなぁ、と思うのは、街中(まちなか)で小さなお子さんのいるご家族連れを見ると、ついこの前まで大久保家もそうだったなぁと思うことがあるんですね。単にそのときを懐かしがっているだけなのかもしれませんが、今や長男は高校1年生、娘は中学2年生です。子供の成長を感じるイコール自分も年を取ったなぁ…だったり、もう子供たちは自分を超えているなぁ…という寂しさだったり。成長を感じる場面は、わたしと彼らとのコミュニケーションにもあります。まずもって交わされる言葉数が明らかに減少しています。まず、息子の挨拶が例えば朝、「おはよう」と言っても「おはよう」ではなく、「あぁ…」だったのが、最近では娘までも「あぁ…」。完全に妹が兄に同化してしまいました。もうそれは“言葉”ではなく、“音”ですね。しかもその音の高さ、いわゆる音程がですね、わやかな挨拶の交わしあいに比べると“オクターブ”は下がるんですね。朝からそんな高いテンションで挨拶できないことはわかっていますが、「おはよう」に対して「あぁ…」(☆重低音で!)なんです。いやぁ…寂しいものです。さらに最近では“音”を超えて…というか音が無くなりました。頷いたり、首を横に振ったり…。“無音”です。うち、大久保家、大久保が苗字ですが、大久保から音無(オトナシ)に改名して見ても…なんて冗談です。まぁ、なんだかんだ言いながらも、ふたりとも会話をしてくれますし、相手もしてくれます。成長にふさわしい素直さを保っていてくれているなぁと思えているのも幸せなことだと実は感謝しています。深く傷ついているわけではありませんのでどうぞご安心してください。無理やりかもしれませんが、今朝のお話のタイトルを思うとき、家族の歩みが神さまに、備え・守られているんだなぁ、導かれているんだなぁ…感謝だなぁと思えている今日この頃でございます。

さて、今日はわたしたち一人ひとりに与えられている人生が神さまによって守られている、その道が備えられたものなんだということを、ふたつのエピソードをご紹介し、そして共にみ言葉に聴くことで、改めて心に留めて、今日から始まる新しい週の歩みを歩み出したいと思います。

2019年秋のある日の午後(1018日㈮)、新型コロナウイルスが発生したと一般的にいわれてるいのが201912月ですので、少なくともわたしたちの生活には、まだなんの制約も無かった頃ですね。わたしは大川小学校にいました。石巻市立大川小学校。2011311日、もうあれから10年と5か月あまり経ちました。全校生徒108名中74名、教職員11名中10名が犠牲となりました。74名中未だ見つかっていない生徒4名。震災のことを忘れないために取り壊さない、いわゆる「震災遺構」として残されていますが、本当に周囲には何もない、ポツンとあるんです。こんなところに学校が?と思いましたが、震災前はそこは人が生活し、行き来する賑やかな町だったのです。すべて流されてしまったんですね。当時女川中学校の先生をされていた佐藤敏郎さん。あの震災を忘れない・伝える・二度とあのような悲劇を繰り返してはいけないという使命に生きておられ、「小さな命の意味を考える会」代表、「大川伝承の会」の会員をされています。その佐藤さんから現地でお話を伺う機会がありました。お嬢様の一人、みずほさんは当時大川小学校の6年生。あの震災で亡くなりました。

 佐藤さんはおっしゃいました。ここには街があったんです。生活があったんです。命があったんです。たくさんの拡大写真をパネルにしたものをめくりながら、そして大川小学校の跡地である校庭を歩き、また校舎内を外から見学し、また野外ステージの壁に描かれた絵の数々を見たり、ここに避難していれば確実に全員助かっていたという、普段から校外学習などで登っていた山にも登りました。山を登ると言うと大変そうですが、わたしと一緒に参加していた別の学校の教員が校庭から実際にその山にある高台まで走ってみると1分とかからないくらいに、本当に間近なんです。

 校庭に立って写真のパネルを見せてくださりながら佐藤さんはおっしゃいました。「ここは子どもたちがお花見給食をした場所です」、満開の桜の木の下で楽しく給食を食べています。「こどもたちの姿が見えます。こどもたちの楽しそうな声が聞えてきます」またパネルをめくりながら佐藤さんはおっしゃいます。「ここは子どもたちが運動会でバトンタッチした日(場所)です。入場行進した場所です。」体育館と校舎を結ぶ渡り廊下がガラス張りでそれは2階にありました。空のトンネルと言っていたそうですが、本当に素敵なんです。運動会の日にはそのガラス張り一面に万国旗の飾りつけがされ、それはもう楽しそうです。

 野外ステージは流されてもうありませんが、恐らくステージは校庭の地面から1mくらいは高い所にありましたので、地面からステージの台にあたるところには子どもたちが描いた絵が並んでいました。そこにはっきりと記された文字があります。「未来を拓く」。「拓く」という字は「開拓する」という字の「拓」という字ですね。「未来を拓く」これは大川小学校の校歌のタイトルです。佐藤さんはおっしゃいました。津波はここは流さなかった。「この校庭から未来を拓くためには、ここで起きたことにふたをするのではなく、しっかりと向き合っていくことが大切です。」ボランティアの学生がそう言ってくれたそうです。

 佐藤さんが当時勤めていた女川中学校は、大川小学校よりも海に近く、全員避難して無事でした。ですから奥様が先生のもとに来て、「みずほが亡くなった」と告げて泣き崩れたとき、頭が真っ白になり、何が起きているのか分からなかった、涙も出なかったそうです。自分のいた女川中学より海から遠いし、津波到達まで時間はあったので、当然助かっているものと思っていたのです。みずほさんがいた教室には、担任の先生が思いを込めて書いてロッカーに貼っていた名前シールが綺麗に残っていたと、これも写真パネルで見せてくださいました。遺体に声をかけると涙がす~っと流れたそうです。「多分泥水だと思うのです…」が、とおっしゃいましたが、それはやっぱりみずほさんの涙なのだとわたしも思います。

 わたしたちがいた校庭の向こう側には、ショベルカーが1台ずっと音を立てて動いていました。被災地ではよく見られる光景で、整地した盛り土をしたりしています。わたしはてっきりそうだと思っていました。違いました。佐藤さんはおっしゃいました。「あの重機は整地工事をしているのではありません。父と母が我が子を探しているんです。」とたんに苦しくなりました。悲しくなりました。そんな言葉では言い表せない思いになりました。

 失う経験。本当に辛いです、悲しいです、怒りもあります。そんな言葉では全然足りません。わたしたちも自分の人生を生きる中でそのような経験はあります。佐藤さんはおっしゃいます。生き残った一人の先生が責められるようなことがあってはいけない。その先生が苦しむようなことがあってはいけない。生きていて良かったと思えるようでなければいけない。その先生には生きる意味があるから生き残ったんです。

 わたしたちも生きる意味を失いかけることがあります。どう生きて行けばよいのかわからなくなったり、ときには生き方を間違ってしまうこともあります。でも必ずそこに神さまが・イエスさまがいてくださることを信じたいです。佐藤さんのように生きる使命を見出すことができるように、生きる道を必ず備えてくださり、守り導いてくださる神様・イエスさまがおられることを信じたいと思います。

 もうひとつのエピソード。コロナ禍のために近しい人の結婚式や葬式に出ることすらかなわないというご経験はみなさんの中にもされていることと思います。わたしも静岡時代の教え子の結婚式への出席を断念したり、伯父二人の葬儀に参列することも断念したり。わたしの母教会は奈良にあるバプテスト同盟の教会なのですが、洗礼を授けていただいた牧師の葬儀にも出られませんでした。その牧師が天に召される少し前、たまたま福岡への出張がありました。福岡-仙台間の直行便が取れなくて、大阪空港経由で戻る予定でした。ちょうどそのころ、その恩師の1人でもあるその牧師が、入院をされていてこの世における命がもうあまり長くは無いかも知れないと妹から連絡は受けていました。ですから、大阪空港を経由することになったのは改めて考えてみると、これは奈良の実家に一泊して牧師にお会いできるように神さまが備えてくださっているのかと思っていました。そうなると大阪空港・仙台便をキャンセルすることになります。当然お金は戻りません。そうしようと思いチケットをキャンセルしようとしたところ、なんと台風の影響でその日の大阪空港仙台便は飛ばない、欠航するということが決まっていて、払戻ししてくださるというのです。お金まで戻ってくる、神さまありがとう!そう言いたい訳ではありませんが、その日の仙台便が欠航になるなんて、そのために予定が狂って大変だったという方もおられると思いますが、わたし自身は何か、その日は帰らずに、先生に会って来なさいと神さまのお導きがあったのだと本当に心からそう思いました。翌日病院を訪れたところ、先生は寝息を立ててよく眠っていらっしゃるという状態でした。「(柴田)先生、直樹です。仙台から参りました!と手を握りながら耳元でお話すると、何度か頷きながら目もうっすらと開けてくださるような反応を示してくださいました。短いひとときでしたが、先生のご家族とわたしの母と妹で、賛美歌「いつくしみ深き」を歌って、お祈りをして過ごすことができました。お会いできてよかった…。このときを備えてくださりあり。神さま本当にありとうございます。という体験でした。

 さて、今朝与えられています聖書は旧約聖書の創世記にあるアブラハム物語の中にある、息子イサクを神さまにお献げする場面です。アブラハムとは旧約聖書に登場するイスラエル民族のいわゆる族長、民族の大祖先です。そして彼はキリスト教の世界ではよく「信仰の父」と呼ばれる偉大な存在なんです。今日のお話でも、我が息子を神さまに献げようとするわけですから、そりゃすごいですよね。でも果たして彼、アブラハムは最初から「信仰の父」と呼ばれるほどの信仰者だったのでしょうか。実はアブラハムもまた、神さまによって信仰者として成長させられていったのだというところから考えてみたいと思います。

クイズです。彼は何歳まで生きたでしょう?四択で聞きます。50歳?75歳?100歳?それ以上?正解はそれ以上でした。なんと彼175歳まで生きます!ありえな~い!と思いますよね。実は、聖書に記された年齢は書かれた時代時代によって異なっていて、旧約聖書の物語が古ければ古いほど、300歳とか400歳とかどんどん長生きするんです。それは本当にその年月を生きたかというよりは、それほど神さまに祝福されていのだという祝福の豊かさを年齢で表わしていると理解してよいかと思います。ともかく、アブラハムは175歳まで生きるわけですが、その100年前の75歳のときに(創.12:4)、まず神さまから告げられるんです。いわゆる神の召し、召命というものです。創世記12章に次のようにあります。「あなたは生まれた故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。…」彼は「主の言葉に従って旅立った」と続きます(創.12:1以下)。実年齢が75歳での旅立ちならこれはもう凄いことですが、仮に現実的に考えて175歳の人生で75歳のときというのは、人生100年に置き換えると42歳くらい、これを人生75年に置き換えたとしたら32歳くらいです。あぁ、まだまだ人生これからだからアブラハムも「はい、分かりました、行きます!」と言えたのかも知れない、そうだとするとやっぱり信仰の父なんだと思えるかも知れません。でも、よく聖書を読み進めていきますと、彼と妻サライは二人とも年を取っていたのでこどもが授からないと思い込んでいる場面が描かれています(創.18章)。ということは、実年齢を割り出してみようとするのも単純にはいかないようで、神さまからアブラハムへの旅立ちのご命令はやはりある程度、年老いた時期であったのかと想定することができます。そしてそんな彼に神さまは、「あなたの受ける報いは非常に大きい」(15:1)=子孫繁栄するとおっしゃるのです。でもそう言われても彼は信じられない。「…あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」(3節)と応えるのです。そんな彼に神さまは「…あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(15:4)とおっしゃって、さらに「主は彼を外に連れ出して言われた」と続くんです。とても絵画的だと思いませんか!ちょっと聖書を見てみましょう。創世記155節(旧約聖書19ページ上の段)「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることできるなら、数えてみるがよい。』神さまとアブラハムが並んで天を仰いでるんです。なんかいい感じじゃないですか?そして神さまが言うんです。「あなたの子孫はこのようになる。」(5節)そしてアブラハムは主を信じた。…(6節)と続きます。この主を「信じた」という動詞は、旧約聖書の原文であるヘブライ語を直訳すると、アブラハムは神さまに「信じさせられた」「信じるように導かれた」となります。アブラハムは自分自身で信じることができるようになったというのではなく、まさに神さまによって信仰者として成長されられていく存在なのです。そして、このことはまたわたしたちも同じなんだということです。この流れの中で、今朝与えられた箇所も読んでみようと思います。

22章1節冒頭に、「神はアブラハムを試された」とあります。まさに、神さまによってアブラハムは試練を経験するのです。わたしたちもまた人生における試練があります。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げものをしてささげなさい。」彼が向かう地は「モリヤ」。「人が神を見る場所」という意味があるその場所へと、なんと彼は最愛の一人息子を献げろと、命じられるのです。不思議なことに、この場面ではアブラハムの動揺、葛藤、苦しみ、悲しみなどはほとんど読み取れず、先ほどご紹介したような、神さまへの質問・意見などもありません。ただ淡々と物語が進行していきます。果たしてそれほどまでに、彼アブラハムの信仰はもう成長していた、さすがイスラエル民族の族長、信仰の父となっていたのでしょうか…。67節は読んでいて切なくなります。22:06アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。 22:07イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」イサクは自分が焼き殺されるための薪を背負ってるんです。父に告げるのです。不安な心境を。父親を呼ぶ言葉がまた辛いですね。「わたしのお父さん」。これは口語訳聖書では「父よ」ですから、新共同訳聖書では、イサクの心に寄り添った訳になっているのかと思います。返すアブラハムの言葉も改めて読むと、「ここにいる。わたしの子よ」どことなく、一緒にいるから、大丈夫だとなんとか安心させようとするかの思いが伝わってくるようではありますね。しかし、イサクの不安混じりの問いが続きます。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」822:08アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」人間の感覚で言うならば、そのような信仰はとてもじゃないですが、持てないと思ってしまいます。しかしアブラハムはこれまでの人生の歩みの中で、それこそ授からないと思っていた独り子イサクを授けられた奇跡をはじめ、いろいろな経験を積み重ねる中で、人間の思いではとうてい持つことのできない信仰を、神さまの側からの守りと導きによって備えられる奇跡を信じる信仰の経験が与えられていたことは事実であろうと思われます。だからと言って、この時点で彼が固い信仰に立っていたかのかどうかは分かりません。最愛の息子から問われ、息子の不安に満ちた表情を目の前にして動揺しない親はいないとも言えるでしょう。そうこうしているうちに、イサクは父アブラハム自らの手によってとうとう祭壇の薪の上に載せられ、刃物を振りかざされるのです。このシーンだけでも、アブラハムとイサク、父と子の間でどのような心の動き、表情の変化、あるいは言葉のやりとりがどれほどあったのかと想像してしまいます。日本聖書協会が発行しているアートバイブルという本があります。聖書中に登場する人物・物語を有名な画家たちがどのように読み解いて描いているのかを見ることができます。1)レンブラント:アブラハムの左手はイサクの顔面を覆うようにわしづかみ。ですからイサクの表情は分かりません。/刃物を握る右手は、空中に浮かんでいる天使の右手で抑えられて刃物が落下中!/アブラハムはその天使の方を振り向いている。その表情は、驚き・やつれ…といったところでしょうか。/天使の左手はアブラハムに振りかざすようにちょっと待った―!みたいな感じ/子羊の姿はまだ見えない/2)カラヴァッジオ:アブラハムは左手でイサクの首根っこを押さえこみ、イサクの表情は歪んでいる/天使の右手でアブラハムの右手が掴み抑えられ、イサクに刃物が届かないようにされている、アブラハムの表情はどことなく険しくも苦渋に満ちたと言った感じでしょうか。/天使の左手は傍まで来ている子羊を指さし視線も子羊を見て、アブラハムにほら見なさい!だからもう息子を献げなくてよいと言わんばかり/

 注目したいキーワードに4節と13節にある「アブラハムが目を凝らす」という言葉があります。「目を凝らす」と訳されている言葉を直訳すると「目を上げる」となるそうですが、いずれにせよ、それまではっきり見えていなかったものが、見えるようにされている転換がここにはあります。わたしたちも試練の中にあっても、「目を凝らすとき」、「目を上げるとき」が備えられているのだと思うのです。

さらに注目すべきは備えられていた雄羊です。神さまが備えてくださる犠牲によってわたしたち人間が救われる、まさに主イエス・キリストによる十字架の愛がここから示されるということもできます。そのイエス様が十字架上で語らえたみ言葉に次のような有名な言葉があります。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46

ご自分が人々の罪の贖い主として、その罪を赦すために十字架の犠牲になられることをご存知であったはずのイエスさまが、このような苦渋に満ちた葛藤の中からあふれ出る言葉を口にされるのです。そして息をひきとられる直前に大声で叫ばれた言葉が次の言葉です。「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)。これはわたしたち自身もまた、あのアブラハムのように信仰を成長させられて歩む者となってゆくと同時に、いつになったら、100%の完璧な信仰になるというのではなく、いく度かの試練に遭う中で、再び目を上げて生きる者とされ、主に委ねて生きる者とされていくという、まさに信仰の足跡をイエスさまが証してくださっているのだと信じたいと思います。

 

今日から始まる新しい週もまた主に委ねて生きるわたしたちでありたいと願います。