「真に富む者」

          ヤコブの手紙257節  

                     水田 雅敏

 

初代の教会は、使徒言行録や新約聖書の中にある多くの手紙などを通して、比較的貧しい人たちによって構成されていたことが分かっています。貧しいということは、この世の基準や計りに従って見るときに、貧しいと判断され評価される意味での貧しさということです。その貧しさの原因やいきさつはともかく、生活状況において持つものが少なく、内面的にも自分を支える何かをしっかりと確立しているわけでもない人たち、それゆえに社会的に弱く小さくされている人たち、それが貧しい人たちです。

今日、私たちに与えられています聖書の箇所からも、ヤコブの手紙を受け取っている教会がそのような貧しい人たちによって成り立っていたことを伺うことができます。5節にこうあります。「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」この言葉からこの手紙を受け取っている教会にも貧しい人たちが多くいたことを知ることができます。

このように初代教会において貧しい人たちが多かったのは、ただ単に結果としてそのようになったのか、あるいは神の意志や計画がそのような状況の中に働いているからなのか。この二つの問いのどちらが正しい答えを含んでいるかを考えてみますと、聖書全体を通して与えられる答えは後者です。つまり、教会に貧しい人たちが多いのは、偶然の結果なのではなくて、神がまず、貧しい人たちをお選びになったからだと考えることができます。

神はなぜ貧しい人たちを初めにお選びになったのでしょうか。神はなぜ御自身の地上における救いの業を貧しい人たちから始められたのでしょうか。神はそのように貧しい人たちから始められることによって何を意図しておられるのでしょうか。

私たちは、神の側にあるその根拠をこれだと断言することは避けなければならないということをわきまえながら、推し量ることは許されているのではないかと思います。つまり、神はこの世的に貧しい人、貧しくさせられている人たちをまず選び、御国を受け継ぐ者としてくださることによって、人間全体が神の前にあって本来貧しい者であることを示そうとしておられる、そういう神の意図がここにあるのだと思います。

貧しく生きざるを得ない人たち、彼らはただ神からのみあらゆるものを期待し、神によってのみ自分が生きることの意味や力を得ることができる人たちです。そういう彼らがまず選ばれることによって、実は人間全体が、神から受けるのでなければ真の富を手にすることができない、それほどの貧しい存在なのだということのしるしがここに示されていると考えることができます。

それは人間の真の意味での貧しさの自覚を神が求めておられることの表れだと言ってよいでしょう。貧しさの中に伸ばされる神の御手によってすべての人が自分の貧しさを認めることが求められているのです。この世的に富んでいても、神の前にあっては神から受ける以外に真の富を手にすることができない貧しい存在なのだ、そのことを知ることができるようにと神はまず貧しい人たちを選ばれたのです。

私たちも今、このように神の前に立つことができ、神の国を受け継ぐ者とされ、新しい命の約束を与えられているのは、私たちの強さが神に認められたからではありません。私たちの能力が神にとって有効だからそうされたのではありません。何らかの良い業が御国に必要だということで私たちは神の試験に合格したのではありません。そうではなくて、逆に私たちが貧しいからこそ、そのことを知っている者として神の招きに応じたからこそ、私たちは御国を受け継ぐ者とされたのです。弱さこそ神の救いが宿る場所なのです。

このことは繰り返し私たちが立ち帰らなければならない信仰の原点だと言ってよいでしょう。それと同時に、神が貧しい人たちにまず御手を伸ばされたことの中には私たちもそのように生きることへの促しがあると見なければなりません。より貧しい人たちへの責任を、神は自らの行動を通して私たちに教えてくださっているのです。神に喜ばれる生き方、神に肯定される生き方を、神御自身がまず貧しい人たちを選ぶことを通して私たちに示してくださっているのです。

それではヤコブの手紙を受け取っている教会のそのような貧しさについての理解と実践はどのようなものだったのでしょうか。

教会自身が貧しい人たちでありつつ、神にあって生きることの喜びを知らされた人たち、それがこのヤコブの手紙を受け取っている教会の状況です。ですから、その救いの体験は当然、同じような貧しさの中にある人たちに神の愛を運び、神の国の一員としての招きがあることを証しする業に結びついていくべきでしょう。貧しい人たちの救いのためにこそ、その教会は働くべきでしょう。それが神から受けた恵みに応える教会の在り方でしょう。

ところが、教会の現実はそうではありませんでした。1節から4節にその一つの例が挙げられていたことは前回学んだところです。教会の人々は富んでいる人たちに媚びへつらい、貧しい人たちには不当な差別的な取り扱いをなし、彼らに無礼な振る舞いをしていました。それ以外にも貧しい人たちに対する屈辱的なことが教会でなされていたことを、今日の聖書の6節の「だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた」という短い告発の言葉から推測することができます。

この教会自体が貧しい人たちによって成り立っていた教会です。彼らは貧しい人たちを心にかけてくださる神の憐れみによって救いの喜びや神の国を受け継ぐ希望を与えられた人たちです。そうであるならば、神がなさったように彼らも貧しい人たちに憐れみをもって臨むべきでしょう。しかし、彼らはそうしませんでした。貧しい人たちを軽んじることによって神の愛や憐れみ、神の招きや選びをないがしろにしてしまったのです。

ヤコブはさらに、富んでいる人たちの問題性をも明らかにしています。

一つは、富んでいる人たちの貧しい人たちに対する容赦のない在り方です。6節にこうあります。「富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。」これは、貧しい人たちが富んでいる人たちからお金を借りて、約束の期限までに返すことができなかったためにすぐに裁判に訴えられたということを指しています。貧しい人たちへの厳しい仕打ちが富んでいる人たちによってなされていたのです。その事実をヤコブは知って、それに心を痛めて、富んでいる人たちが貧しい人たちを苦しめている事実を思い起こさせているのです。

さらに、富んでいる人たちの問題行動として、7節に次のようにあります。「また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。」「あなたがたに与えられたあの尊い名」というのは「キリスト者」という呼び名のことです。「キリスト者」という名で呼ばれることは、その人が「キリストに属する者」、「キリストのものとされた者」を意味する呼び名として、キリスト者にとっては誇りある名となっていました。富んでいる人たちはそのように呼ばれているキリスト者を嘲り、冒涜し、抑圧していたのです。富んでいる人たちのもとで貧しいキリスト者たちが苦しみを受けていたのです。

ヤコブは、富んでいる人たちがその富のゆえに非難されるべきだとか、その富のゆえに神の選びから漏れるのだということを言おうとしているのではありません。むしろ貧しい人たちが神に顧みられている事実の中に、富んでいる人たちが自分たちも神の顧みを必要としている弱さや貧しさがあることを知って、神の前にへりくだることを願っているのです。そのことを彼らに教え示す責任が教会にあることを教会が自覚することを、ヤコブは求めているのです。しかし、現実はそれとはまったくかけ離れていて、貧しい人たちから成っている教会は富んでいる人たちに翻弄されたままでした。その事実に立って、ヤコブは富んでいる人たちを厳しく戒めると同時に教会の弱さと課題を明らかにしているのです。

教会は富んでいる人たちが行っている行動の過ちを明らかにする勇気を持たなければなりません。あなたがたもまた神の前にあっては貧しい存在であり、神から受けるのでなければ真の富は持ち得ないのだということを彼らに示していくことが教会の責任なのです。この世の尺度や道徳の規範ではなく、神が貧しい人たちに対してなされた御業の規範に立って、富んでいる人たちの今の在り方は受け入れられないのだということを毅然とした態度で示していく勇気を、教会は持たなければならないのです。

5節に「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい」とあります。この呼びかけの中に私たちはヤコブの、教会に対する熱い思いが込められているのを見ることができます。今のままではいけないのだ、貧しさのゆえに卑屈になる必要はない、あなたがたは貧しさのゆえに神の富に富むようになった、富んでいる人たちも同じことが必要なのだ、だから勇気をもってそのことを証ししていきなさいと訴えているのです。

 

私たちは人間としての価値をどこに置くのかを今新たに問われています。私たちも私たちに与えられた「あの尊い名」で呼ばれている者たちです。「キリスト者」として呼ばれることには現実の世界では恥や辱めを伴うことがあるかもしれません。しかし、キリストに属する者とされたということは、私たちの弱さ、貧しさの中に神の愛が注ぎ込まれたことを意味します。だれによっても侵されない新しい命がこの「キリスト者」という名には込められています。この名で呼ばれることを私たちはこれからも大切にしていきたいと思います。私たちはすべての人々がこの名で呼ばれることへ招かれていることを証しする責任を負っています。人間としての真の富はこの世の測りによる富とか宝の中にはない、「キリスト者」と呼ばれることの中にこそ真の富は約束されているのだということを、私たちは確信をもって伝えていきたいと思います。