「信仰を見せなさい」

           ヤコブの手紙21819節 

                    水田雅敏

 

ヤコブの手紙が教会の人々に訴えようとしていることの一つは、2章の17節の後半に語られている、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」ということです。信仰は単に心の中だけのことで終わるものではなく、その信仰から押し出されてくる行いというものが伴うべきだというのです。

しかし、ある人々にとってはこのようなヤコブの行いの強調は少し偏り過ぎているのではないかと考えて反論したくなることもきっとあったに違いありません。そのことを予想して、ヤコブは今日の聖書の箇所を書いています。

2章の18節の前半にこうあります。「しかし、『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません。」

「あなた」、「わたし」とありますが、これは具体的な誰かを指しているのではなく、一般的に、あの人、この人という意味です。ヤコブが信仰には行いが伴わなければならないと言っていることに対して、ある人には信仰があり、またある人には行いがある、それでよいではないかと言う人がいるかもしれないというのです。

そのような信仰と行いの二者択一、あるいは信仰と行いの二元化、つまり、信仰と行いとを互いに関係のないものとして分離して考えてよいという考えに対して、ヤコブは次のように言っています。18節の後半にこうあります。「行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。」

信仰というのはイエス・キリストの教えを受け入れることやその教えを理解することに留まるものではありません。イエス・キリストの教えを受け入れ、その教えを理解することはもちろん重要なことですが、さらに重要なのはそのイエス・キリストが私たちを生かしてくださっていることへの信頼です。そしてそのイエス・キリストが私たちを行いへと促しておられるのを受け止め、それにいかに応えていくべきかを考え、具体的な行いにおいて表していくことです。そうであるならば、ある人には信仰があり、またある人には行いがある、それでよいではないかと言って済まされるものではないということがそこから明らかになります。そのことをヤコブは語りたいのです。だから、「わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」というような自信過剰とも思える発言を続けてしているのです。

ヤコブはもちろん自信過剰な人だったわけではありません。そうではなく、この世でキリスト者がイエス・キリストへの信仰に生きようとするときに、そこに信仰に裏打ちされた行いが生まれてくるはずだ、行いが目に見える形で出てこざるを得ないのではないかと訴えているのです。信仰と行いがそれぞれのキリスト者において何らかの形で結びつき、それによって信仰が決して内面の事柄として終わらずに、目に見えるものとして表に表れ出ることこそ願わしいキリスト者の生き方であり、願わしい教会の在り方だと訴えているのです。イエス・キリストに倣って私たちも他者のために仕える道を歩むことが求められているのです。そのことを私たちは聞き取らなければなりません。

ヤコブは信仰が知的な理解とか内面の出来事という性格を持っているということを否定しているのではありません。イエス・キリストの十字架と復活の出来事がどういうものであるかが分かる、そして、そのイエス・キリストと自分は出会ったという内面的な体験を持っている、それは信仰において大切な事柄です。しかし、それは必ず何かの動きをその人に起こさせるのではないか、真にイエス・キリストとの出会いがその人に起こっているならば、内面の充実ということだけで終わらず、そこから押し出されてくる行いがあるのではないか、これがヤコブの強調点なのです。

そのことをヤコブは一つの事柄を例に挙げて説明しています。19節にこうあります。「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」

「神は唯一だ」とあります。これは私たちキリスト者にとっては信仰の中核をなすものです。それは旧約時代から受け継がれてきた信仰の基本的な事柄です。例えば、申命記の6章の4節に次のようにあります。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の神である。」これはユダヤの人々にとっては決して譲ることのできない教えでした。

そして、イエス・キリストもそのことをそのまま語っておられます。例えば、マルコによる福音書の12章の29節にこうあります。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。」イエス・キリストも神は唯一であることをお教えになりました。

そして、私たちも唯一の神を信じています。しかし、「神は唯一だ」ということを知的に認めることだけならば、そのことを知っているということだけならば、悪霊たちでさえ同じことではないかとヤコブは言うのです。

ここでヤコブの頭の中にあったのは、福音書に記されている悪霊に取りつかれたために墓場を住みかとしていた人の物語でしょう。マタイによる福音書においては8章の28節以下にその物語があります。悪霊はイエスが近づいて来られるのを見て、「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」とおののきの叫びを上げています。悪霊さえも神が唯一であることを知っている、しかし、その悪霊が持っている「神は唯一だ」という知識は、彼らの中におののきの叫びを起こさせこそすれ、神への服従には結びついていない、そのような知識は意味がないのだとヤコブはいうのです。

唯一の神はイエス・キリストにおいて私たちにその愛を注ぎ、私たちの救いのために必要な業を為してくださいました。そうであるならば、私たちも信仰をもってこの神に応えていくべきではないでしょうか。そのとき、行いが生まれてくるのです。

神を知的に理解することに留まる信仰と行いとの分離の例を、私たちは聖書の中からいくつも見ることができます。

例えば、テトスへの手紙の1章の16節に次のような言葉があります。「こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。」ここには神を知っていることと行いとの分離があります。悪霊において神を知っていることと神を恐れていることとが一緒にあったのと似たようなことがそこに起こっています。

ヨハネの第一の手紙の2章の4節にも次のような言葉があります。「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。」この場合の「掟」とはイエスが教えてくださった掟、すなわち「愛をもって他者に仕えなさい」という掟でしょう。「神を知っている」と言いながら他者への愛が少しもその人の中に生まれてこないというのは、神を知ることと神によって生きることとが分離している証拠なのではないかというのです。

そのようなことをヤコブは背後に持ちながら、この手紙を読む読者に呼びかけているのです。あなたがたは神についての知識を持っていることで満足してはならない、伝統的な信仰の流れに立っているとの自負だけで満足してはならない、立派な神学を身につけることでそれでよしとしてはならない、真の信仰、生ける信仰は言葉と行いとにおいて、信じている事柄が目に見える形で現れてくるものなのだ、あなたがたはそのようなキリスト者であろうと努めてほしい、そのように呼びかけているのです。

 

信仰が目に見える形で現れるキリスト者、そのような在り方へと私たちも招かれていることを覚えて、この週、歩んでいきたいと思います。