「教師の務め」

           ヤコブの手紙315節a 

                     水田 雅敏

 

ヤコブの手紙の3章は1節から12節まで舌の問題、すなわち言葉の問題が取り上げられています。とりわけ今日の聖書の箇所においてはその言葉の問題が教会の教師の問題と結びつけられて述べられています。

1節にこうあります。「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたちの教師はほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。」

私たちはまず,ここで言われている「教師」とはどういう立場の人なのかを理解しておきたいと思います。

新約聖書には教会における務めについての文章がいくつか書かれています。例えばコリントの信徒への第1の手紙の12章の28節に次のようにあります。「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師…。」

ここに「教師」という務めを持った人が教会の中にいたことを読み取ることができます。それは人々に神の言葉を宣べ伝え、信仰の内容を教える務めを持つ人のことでした。

もう一つの例を挙げますと、イエス・キリストは御自身が教師としての務めを持っていることをしばしばお語りになりました。マタイによる福音書の23章の8節と10節に次のようにあります。「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」「『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」

これらのことから分かるように、教師とは唯一の教師であられるイエス・キリストに倣い、神の御心を人々に明らかにしていく務めについている人です。言葉で人々に神の真理を教えていく、イエス・キリストが明らかにしてくださった神の意志や計画を伝え、人々がどのようにその御心に従って生きるべきかを言葉によって訴えていく、それが「教師」と呼ばれる人の務めです。

ですから、教師は自分の思想や主張や考えを語ったり、それを人々に押しつけたりするのではありません。人間の中から出てくるものではないもの、イエス・キリストによって明らかにされた神の御心を語ることに心を注がなければなりません。人々の向かうべき方向を示し、人生の内容がそれによって決められてしまうような人間の生と死に直接関わることを教えるのが教会の教師の務めです。神から託された務めとして、神から語れと命じられたことのみを言葉を用いて差し出していくこと、それが「教師」と呼ばれる者の働きの内容です。

2節にこうあります。「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」

言葉というのは、それを語る人から独立してあるのではなくて、他の人に働きかけるときの自己表現や相手との交わりの手段の一つです。そこには自分自身が差し出されています。互いに語り、また聞く言葉によって人格と人格が触れ合います。時には言葉によって人格と人格とがぶつかり合うこともあります。ある言葉は人を生かします。人を慰めたり、励ましたり、生きる勇気を与えたりします。新しい世界に目を開かせる働きをすることもあります。しかしまた、人を殺す言葉もあります。あの一言によって深く傷つけられたとか、ああいう言葉を口にする人とは一緒にやっていけないとか、あの人の言葉は何か裏がある言葉としてしか聞き取ることができないというようなことが様々な人間関係の中で起こります。

教師というのはそのほかのことにおいてもしばしば過ちを犯しがちな者ですが、とりわけ言葉における過ちを犯すことの多い者であることを私自身痛感させられます。特にキリスト教においては言葉というものは独特の重要な面を持っています。それはイエス・キリストが「言」と言われているからです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とヨハネによる福音書の1章の14節にあるように、神の御心がすべて明らかにされるために人間の世界に遣わされたイエス・キリストは「言」と言われています。イエス・キリストに聞くことは神に聞くことである。そういう意味でイエス・キリストが神の言葉だと語られています。

人間の言葉を用いてこの神の言葉を取り次ぐのが教師の務めです。自分が語る言葉によって人々が真の命に至るように仕える、そのために語るべき言葉を整えていく、それが教師の務めです。ですから、教師には神の道具として用いられる光栄と共に重い責任が伴います。教師はまず、自分自身が神の言葉によって打たれなければ語ることができません。神の言葉によって心が揺り動かされなければ語ることができません。神の言葉によって捕らえられるときにはじめて、教師は言葉を通して神の命を人々に伝えることができる者とされます。何を語り、何を差し出すべきかは神御自身によって示されます。これが語る務めを負わされている教師のあるべき姿です。

しかし、実際には、私の場合に限ってですが、そのことはなかなか難しいと言わざるを得ません。神から響いてくる言葉よりも自分の言いたいことで語る事柄を満たしてしまうことがあります。誤った信念で教えを説こうとする場合もあります。語る者として、神が委ねておられる事柄において過ちを犯す危険性をいつも抱えているのです。

教師が、神からの委託を誤って果たそうとしたり、言葉の過ちを平気で犯す場合、1節ですが、その「教師はほかの人たちより厳しい裁きを受けることになる」とヤコブは言っています。語る責任を負わされている教師がその語ることにおいて過ちを犯すならば、ほかの人たちより厳しい裁きを受けることになる、それゆえ、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりませんというのです。

ヤコブは舌、つまり人が語る言葉が持っている重要な働きをさらに分かりやすく悟らせるために二つの比喩を用いています。それは馬のくつわと船の舵です。

3節から5節の前半にこうあります。「馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。」

馬の口にはめるくつわ、船の後方に取りつけられる舵、どちらも小さなものですが、そのように小さく見える道具が、馬とか船といった大きなもの全体の在り方、全体の進む方向を定める役割を果たしています。そのような小さな道具が大きな役割を果たしているのと同じように、体の中の舌という小さな器官を教師は制御できる者でなければならないとヤコブはいいます。

それでは、ヤコブが「あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」と語っているこの教師にあえてなるためには、またその務めを正しく果たすためにはどうしたらよいのでしょうか。

そのことに関する教えを旧約聖書の中から一つだけ見てみたいと思います。それはイザヤ書の50章の4節です。「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え 疲れた人を励ますように 言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし 弟子として聞き従うようにしてくださる。」

イザヤは舌のことを「神の弟子」と言っています。舌が神の弟子としての働きをしているというのです。ですから、そこでは語れとお命じになる神が主体です。

その神に促されて、教師は御言葉を語らなければなりません。そして、そのことができるために、「神は…朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし 弟子として聞き従うようにしてくださる」と語られています。朝ごとに神によってわたしの耳が呼び覚まされ、語るべき言葉もそこで呼び覚まされる、それによってはじめて、教師は神の言葉を語ることができるのです。ですから、教師は神からその日その日送られてくる言葉に聞いて、語るべきことを得ていくことに努めなければなりません。主の日の説教の準備のためにもそれが繰り返し為されなければなりません。

ある人が説教者について次のように言っています。「説教者は静かに集中して聖書の言葉を聞くために無限と言ってよいほどの多くの時間を取らなければならない。説教者は徹頭徹尾、神の言葉を受け取ることによって生きるのである。」

一言で言えば、教師は神から語れと言われる言葉を聞き取ることができるまで耳を傾けなければならないということです。徹頭徹尾、神の言葉を受け取らなければ語れない、そして受け取ったことによって語るのであるならば、言葉における過ちを最小限に抑えることができるということにもなります。

教師は言葉における過ちを犯すことがないように神の言葉をどこまでも聞かなければなりません。受け取らなければなりません。そのことを自らに課しながら、その務めを果たしていかなければなりません。また教師は、聞く人々の祈りに支えられて語るべき言葉を神から与えられることもあります。これもまた教会には欠かせない事柄です。

 

言葉で過ちを犯さないようにということにだけ注意が払われて戦々恐々とするのでなく、私たちの教会に属する一人一人の命が生き生きとしたものとなるために、生きた神の言葉が語られる教会を目指すために、教師と呼ばれる者も、それを迎えている群れ全体も、神から聞き、また聖霊の助けを祈り求めることを欠かすことができないのだということを、ここで覚えたいと思います。そのような祈りと真剣な取り組みの中から、御言葉を語る務めに神から召し出される人もきっと現れることでしょう。これらのことも私たちの願いとして持ち続けたいものです。