「キリストの救いの広さ」

              ヘブライ人への手紙91528

                                  水田 雅敏 

 

今日の聖書の箇所はヘブライ人への手紙の9章の15節から28節です。

15節にこうあります。「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。」

「新しい契約」とあります。これはこの手紙の著者が8章の8節以下に預言者エレミヤの言葉を引用して語った新しい契約のことです。新しい契約を結ぶ時が必ず来ると神が約束してくださったのです。

その契約の内容は8章の10節の後半の言葉で言えば、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」ということです。

ですから、9章の15節に語られている「永遠の財産」というのは神の民の共有財産だと言うことができます。神の子である私たちキリスト者が神の財産を受け継ぐのです。神の命を受け継いで生きることができるのです。

宗教改革者のマルティン・ルターは、私たちの礼拝を支えるものはこの新しい契約であることを繰り返し言いました。「われわれがなぜ神を拝むことを主の日の礼拝ごとに、あるいは折あるごとに続けることができるのかと言えば、それは神が与えてくださった約束に基づく以外にない。だから、主の日の礼拝ごとにわれわれが思い起こすべきことは、神の約束があるからわれわれはこのようにここにいることができるということにほかならない」と言うのです。

16節から17節にこうあります。「遺言の場合には、遺言者が死んだという証明が必要です。遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。」

遺言もまた約束です。ある人が自分の財産を分け与えたいと思う人に文章を書き残します。しかし、生きている間はまだ書き残したことになりません。その人が生きているからです。

ここで言うのもそのことです。「遺言者は死なないといけない。はっきり死んだという証明が必要だ。その時に初めて遺言が有効になる」と言うのです。

この手紙の著者がこのような表現で言いたいこと、それはイエス・キリストが死んでくださったということです。そのお陰で新しい契約、神と私たちとの契約は確かなものとなったのだというのです。

18節以下には最初の契約、私たちが古い契約と呼ぶ契約について書かれています。

その背景になっているのは出エジプト記の24章の記事です。モーセが神との間に結んだ契約のことです。その契約では動物のいけにえの血が注がれました。それによってその契約が清められました。その契約に基づいて礼拝が行われてきました。

それが23節の「天にあるものの写し」です。

エルサレム神殿において行われていた礼拝は天にある礼拝を写し出しているというのです。

私たちの礼拝も同じです。仙台の地、ここでしている礼拝は天、すなわち神のもとにあって何が行われているかを写し出しているのです。

私たちも地上にあって神の御前に出る思いで礼拝をしています。しかし、ここで私たちが思い見る天における礼拝はモーセが思い浮かべていた礼拝とは異なります。

23節から24節にこうあります。「このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。」

この手紙の著者は自分の信仰の仲間たちの心に天におけるキリストの姿を描き出します。今までなかったキリストの姿が天において見えてくるのです。

私たちの礼拝はその天にあるキリストの、神に対する礼拝を写し出し、それに支えられ、それに導かれての礼拝なのです。

キリストはそこで何をなさっておられるのでしょうか。

25節から26節にこうあります。「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自分をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」

大祭司は毎年、動物の血を携えて聖所に出て、自分の罪、また民の罪のために罪の赦しの血の注ぎを繰り返さなければなりませんでした。キリストがなおそのようなことを継続するのであれば、キリストの犠牲は繰り返されなければなりません。もし繰り返されなければならないとすれば、天地創造の時から何度も苦しまなければなりません。無数の苦しみを重ねなければなりません。アダムとエバが罪を犯したときに、既にキリストの苦しみ、キリストの十字架がなければならなかったことになります。カインが自分の弟アベルを殺したときに、キリストの十字架がそこに立てられていなければならなかったことになります。

けれども、実際にはキリストはただ一度、ご自身をいけにえとして献げて、罪を取り去るために現れてくださいました。それで十分だったのです。

ここに書かれていることはいったい何を意味するのでしょうか。それはアダムとエバの罪がキリストの十字架において取り去られるということです。カインの罪が赦されるということです。

キリストが生まれて、苦しんで、死なれました。その出来事が起こった時に、そこに居合わせた人の罪が赦されただけではなくて、それまでの神の民、ユダヤの民の罪がすべて赦されるということが起こったのです。

もしそうであるとするなら、それはただユダヤの民だけのことではありません。私のため、私の先祖の罪のためにもこの赦しの出来事が起こったのです。キリストの十字架の贖いはキリストを知ることなくして死んだ人をも包むものなのです。キリストの十字架の出来事はそれほどの大きな広がりをもって起こったのです。

しかも、キリストの十字架の出来事は過去にだけでなく将来にも及ぶものです。

27節から28節にこうあります。「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」

私たちもやがて死にます。ただ一度、死にます。しかし、死んで終わりというのではありません。神の裁きを受けます。その時にキリストが一緒にいてくださるのです。そのためにもキリストがもう一度来てくださって、神の裁きの前に立つ私たちを弁護してくださるのです。

このキリストの救いの広さを知るとき、私たちの日常の生活の中にキリストの十字架にいつも担われている者としての生活の姿が現れてきます。

この手紙の著者が私たちに勧めていることは、「礼拝に生きる心があなたがたの日ごとの心になるように」ということです。「その日ごとの心の最も深いところにこのキリストの恵みの事実があるならば、それが自分自身の生活の端々ににじみ出てくるはずだ」と言うのです。

これはこの手紙の著者一人の願いではありません。私たちが今改めて願うことです。

 

キリストの血が流された事実があった。そのために、今私たちはこのように神の御前にあって神の子として生きることができる。そのことを確認し、確信できる場所が、ここにこのように備えられていることを、私たちは神に深く感謝したいと思います。