「信仰によって生きる」

              ヘブライ人への手紙102639

                                  水田 雅敏 

 

今日の聖書の箇所はヘブライ人への手紙の10章の26節から39節です。

31節にこうあります。「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」

私たちは神の愛の御手の中であるならば喜んでそこに落ちたいと思いますけれども、ここでは生ける神の手に落ちるのは恐ろしいことだと言っています。それはここで仰ぎ見ている神が裁きの神だからです。

私たちが礼拝をするときに聞きたいのは、「そのような生活をしていると恐ろしいことになりますよ」という言葉よりも、「どんなことがあっても神は私たちを慰めてくれる」という励ましの言葉でしょう。それなのに、この手紙の著者はなぜこのような厳しい言葉を語るのでしょうか。

26節にこうあります。「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。」

「真理の知識を受けた後」とあります。これは「何が真理であるかを教えていただいた後」ということです。つまり、信仰を与えられた後に、洗礼を受けてキリスト者の生活を始めた後に、それなのに故意に罪を犯し続けるのです。

この「故意」、「わざと」というのは「自分で欲する」ということです。自分で欲して罪を犯し続けるとすれば、そのような罪のためのいけにえはもう残っていないというのです。

この手紙の著者はここまで一生懸命に、主イエスがただ一度、十字架について死んでくださったことによって神と私たちとの間に大きな道が開かれたということを語ってきました。そのことを思い起こしながら、その主イエスの恵みに与った後に、なお罪を、一度だけ犯したというのではなくて、何度でも犯し続けて、今も犯し続けているところで、「この私の罪のためにもう一度、主イエスは十字架についてくださるか」と言っても、それは無理だというのです。

この罪の姿は28節から29節にもう少し丁寧に語られています。「モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。」

まず、旧約聖書の律法の姿勢が紹介されます。律法を破る者、その人が確かに罪を犯したという証言があるなら死刑に定められます。

そうであるとすれば、ここはもっと厳しいというのです。なぜかというと、「神の子を足げにする」ことになるからです。

この「神の子」というのは主イエスのことです。主イエスが神の子であることを無視して、いや、それどこか主イエスを足げにしてしまうこと、それは神そのものを足げにすることと同じだというのです。

「自分が聖なる者とされた契約の血」とあります。これは十字架の主イエスの血のことです。私たちを聖なる者、神のものとするために流された主イエスの血、それは何にもまさる清いものであるはずなのに、それを「汚れている」と言い、その上、主イエスの恵みを力あるものにするために働いておられる聖霊を侮辱するのです。

この「侮辱する」と訳されているもとの言葉は「何々に対して高ぶった思いを抱く」という意味の言葉です。こちらが高く立つのです。だから足げにするのです。低くひざまずいていないのです。礼拝をしなくなるのです。

この手紙の書者は私たちの弱さをよく知っている人です。私たちが裁きを招くことがある、私たちが神の裁きの手の中に落ちるということをしてしまいかねないことを、よく知っています。

既にここまでに、大祭司イエスはわれわれの弱さを思いやることができないような方ではないと心を込めて語ってきました。だからこそ今深く問うのです。なぜあなたがたはその主イエスの思いやりから出て行こうとするのか。出て行ったところに救いがあるのか。滅びしかないではないか。そのことをなぜ恐れないのか。

私たちの信仰が真実なものとなるためにはこの恐れを知ることが大切なのです。

そこで、この手紙の著者は32節以下に勧めの言葉を語ります。

32節にこうあります。「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。」

洗礼を受けた頃、真理の知識を与えられた頃のことを思い出しなさい。その真理は光だった。あなたがたはその光を浴びて立ったではないかというのです。

「苦しい大きな戦い」という言葉があります。これはある人の説明によるとスポーツ用語だそうです。ですから、ある聖書では「苦しみのコンテスト」と訳しています。あるいは「苦しみに耐えるコンテスト」と言ったほうが正確かもしれません。この手紙の読者たちは洗礼を受けてすぐに信仰の戦いの中に巻き込まれたのです。

33節から34節にこうあります。「あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。」

これはこの手紙の読者が既に体験していたことです。おそらくローマによる迫害でしょう。例えば、紀元64年、皇帝ネロはローマの都に火を放って、その放火犯人をキリスト者だとして捕らえました。その時、ある者たちは獣の皮をかぶせられて獣と戦わせられました。ある者たちは生きながら松明の代わりにその肉体を燃やされました。世の人々の見せ物にされたのです。

幸いにして見せ物にされるようなことがなかった人たちも、そのような目に遭った人たちの仲間となりました。「ああ、わたしはあんな目に遭わなくてよかった」とよそ目で見たのではなくて、その人たちと共にあったのです。

当時のキリスト者はしばしばこのような脅威にさらされました。

この手紙の著者は、しかし、言うのです。「あなたがたはそこで喜んで耐え忍んだ。」希望を失わなかったのです。

なぜ希望を失わなかったのでしょうか。主イエスがおられるからです。

37節から39節にこうあります。「『もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。』しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」

38節に「わたしの正しい者」という言葉があります。「わたし」、すなわち神が、あなたは正しいと認めてくださるのです。

「わたしが正しい」と神の前に主張するのではないのです。周りの人たちが寄ってたかって、「神さま、この人は正しい人だとわたしたちが保証しますから正しい人と認めてください」と神に求めるのでもないのです。主イエスにおいて私たちを御覧になる神が、あなたは正しい、主イエスの血のゆえに正しいとおっしゃってくださるのです。わたしとあなたとの正しい関係は変わりないとおっしゃってくださるのです。

もしそうであれば、その神のおっしゃってくださることを私たちは信仰をもって受け入れる以外にありません。ひたすらそこに立つしかありません。

「わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」

 

私たちは何度でも「この御言葉、この御言葉」と心に刻みながら確かな信仰の歩みを造っていきたいと思います。そのようにして苦しみに耐えながら信仰を確保した先輩たちがいたことを、深い思いをもって感謝し、顧みたいと思います。