「完全な救い」

               ヘブライ人への手紙10118

                                  水田 雅敏 

 

このヘブライ人への手紙はただひたすら礼拝に生きる心を勧めている手紙です。

次回に読むことになりますけれども、10章の25節でこの手紙の著者はこう語っています。「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。」

教会の仲間というのは、礼拝に出るために、集会を怠ることのないように、励まし合い、慰め合い、支え合う、そういう交わりだというのです。

この手紙の著者が礼拝に生きる心を励ましながらしていること、その一つは礼拝に出る人たちがいかなるキリストを仰ぎ見て礼拝するかを明確にするということです。

私たちは礼拝に集まり御言葉を聞きます。けれども、そこで聞き取ることは学問的な知識ではありません。難解な救いについての考えでもありません。今どのようにキリストを仰ぎ見るかということです。

この手紙の著者は1章の3節の終わりにおいてこういう言葉を語っています。「人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」

そして、今日の聖書の10章の12節以下にこう語っています。「しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。」

私たちは月に一度、使徒信条を告白します。「キリストは、天に昇り、全能の神の右に座しておられる」という信仰の言葉を言い表します。この信仰を言い表わすとき、私たちはこの手紙の言葉を思い起こしながら、キリストの姿を神の右に座っておられる方として仰ぎ見るのです。

この手紙の著者はなぜ座っておられるキリストの姿を語っているのでしょうか。

10章の11節にこうあります。「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。」

ここに語られているのは律法の定めによる礼拝の姿です。私たちが旧約聖書と呼ぶ聖書の中に書かれている律法の定めによれば、礼拝は毎日繰り返されなければなりません。また、年に一度、大祭司による大きな礼拝が行われなければなりません。それはいつもいけにえを献げることでした。いけにえを献げるために祭司は常に立ちます。立ち続けます。毎日立たなければなりません。

ところが、キリストはもう座っておられます。なぜでしょうか。いけにえを献げる業は一度で終えられたからです。つまり、仕事を終えて座っておられるのです。そして、ご自分がなさった仕事が人間の歴史の中でだんだん実りを豊かにし、深めて、やがて最後の勝利の日を迎えるのを待っておられるのです。肝心な仕事はもう済んでおられるのです。肝心な仕事というのはいけにえを献げることです。その仕事を終えられたのです。完成されたのです。だから、もう続ける必要がないのです。

それはどういうことでしょう。私たちがそのいけにえを改めて繰り返し献げる必要がなくなったということです。

ある人がこういうことを言っています。「おそらくこの手紙の言葉はこれを初めて読んだ人の心を打ったことだろう。なぜなら、当時の社会においてはどの宗教においてもいけにえを献げてばかりいたからである。」

この手紙の読者たちは実際に何度もいけにえを献げた体験を持っていました。周りを見ても至るところにいけにえを献げる煙が立ち上っていました。ところが、キリストの教会だけはいけにえを献げませんでした。それは教会の歴史が始まって以来、変わらないことです。

私たちは献げものをしますけれども、これはいけにえではありません。キリストのいけにえをここでもう一度献げ直すわけではないのです。私たちが献げるのは献金です。感謝と献身のしるしです。それは神の御心を行うために用いられます。献金が私たちの罪を取り除くための役割を果たすことは一切ありません。献金をすればするほど罪から楽になるなどということは考えられないことです。そのことに私たちは慣れていますけれども、当時のキリスト者にとってはとても新しい体験だったと思います。

そのような人たちにとって、おそらく強く心を捕らえる言葉があったと思います。それは2節の「もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずです」という言葉です。

律法の定めに従って礼拝する人々はいけにえを何度も献げてやめることがない。そのときに起こってくること、それは罪の自覚が消えないことだというのです。

3節にもこうあります。「ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来る」。

いけにえを献げるたびに罪を思い出してしまうというのです。

この手紙の著者はここでいったい何を言おうとしているのでしょうか。この手紙の著者がこの10章でしていることは、先ほど言ったように、神の右の座に着いておられるキリストの姿を思い起こしてもらうことです。

では、そのことの内容は何でしょうか。

この手紙の著者はここでエレミヤ書の31章の言葉を引用してその意味を説いています。

17節にこうあります。「もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない」。

「思い出しはしない」ということは神が罪を赦してくださったということです。

18節にはこうあります。「罪と不法の赦しがある」。

神が罪と不法をいつまでも覚えておられ、そのことで人間を裁くということはなくなったというのです。

そのように神が忘れたとおっしゃっているのに、なぜあなたがたは自分の罪を覚えているのか、自分の罪に捕らわれているのか、それは神の赦しを無視することではないかというのです。

そこでそのことをなお明らかにするために5節以下の言葉が語られています。

5節以下に語られていることはこういうことです。いけにえを望まない神が何をなさったかというと、キリストご自身に体を備えられた。キリストの体をいけにえとするために。それが神の御心だった。人間が献げる動物のいけにえはもう意味を持たない。それは罪の記憶をよみがえらせ、罪から解き放つことにはならなかった。そこにキリストが来てくださった。そして神の御心に従い、聖書に書いてあるとおり、ただ一度ご自身の体を献げてくださって、神の右の座にお着きになった。完璧な救いを全うしてくださった。そう言うのです。

14節の言葉で言えば、「聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさった」のです。

これは他人のことではなくて私たちのことです。私たち一人一人が聖なる者であり、完全な者になったのだということです。

こうしてキリストは私たちのためのいけにえとなってくださったのです。

この手紙の著者が描いているキリストの姿を私たちは見失ってはなりません。このキリストを仰ぎ、そこに望みを繋いで生きること、そこに望みを繋いで、お互いに励まし合って生きること、それが私たちの信仰生活です。

 

聖霊が私たちの心をいつも開いてくださり、御言葉がいつも聞かせてくださる、このキリストの恵みの姿を仰ぎ見ながら、私たちは共に手を取り合って信仰の道を歩み続けていきたいと思います。