「あなたのただ中に住まう神」

                          ゼカリヤ書2517

                                                     水田 雅敏 

 

今日の聖書の箇所はゼカリヤ書の2書の5節から17節です。

この箇所は昔からアドベント、待降節に読むにふさわしい聖書のテキストの一つとして教会の礼拝などにおいて読まれてきたものです。

預言者ゼカリヤが活躍した時代は紀元前520年頃です。その時代はイスラエルの民が半世紀に渡るバビロン捕囚から解放されて、祖国に戻ってからまだ20年も経っていない頃です。バビロン軍の攻撃によって破壊されたままだったエルサレム神殿の再建も始まって、新しい民の形成がなされつつあった時代です。

祖国復興の機運が高まる中で、ゼカリヤはこの世的なもの、物質的なもの、目に見えるものなどに対してよりも霊的な面を重視して、そのことを民に訴え続けました。そのことが今日の聖書に表われているのを見ることができます。

ここにはゼカリヤが見た幻という形で一つの場面が描かれています。それは一人の人がエルサレムの町の城壁を再建するために測り縄をもって測量している情景です。エルサレムは、古代の都市の多くがそうであったように、周囲に城壁を巡らした都市でした。しかし、この城壁はバビロン軍の攻撃によって壊されたままであったために、エルサレム神殿の再建に伴って新たに造り直されようとしていました。そのための測量がなされているのです。

そういう状況の中で御使いが現れて、ゼカリヤにこの測量における決定的な過ちが示されます。

では、その過ちとは何だったのでしょうか。

その第一は6節と8節の言葉の中に示されています。

まず、6節ですが、これは測量士の言葉です。「エルサレムを測り、その幅と長さを調べるためです」。

そして、8節ですが、これは御使いの言葉です。「エルサレムは人と家畜に溢れ 城壁のない開かれた所となる。」

つまり、測量士は以前と同じような城壁を築こうとして今測量しているのですが、しかし、「新しいエルサレムはそんなものではない。そこに住む人や家畜は以前よりもずっと多くなるので、前と同じ大きさで城壁を築いても意味がない」と御使いは言うのです。

測量士は大変現実的であり、過去に倣おうとする従順さも持っています。しかし、彼に決定的に欠けているのは将来への見通しがないということです。神御自身が抱いておられる将来の計画を知って、それに沿って城壁を築くということが彼にはありません。地上的な知恵はあっても天から来る知恵に欠けていた、このことが測量士の第一の過ちでした。

さらに、9節で御使いは次のように告げています。「わたし自身が町を囲む火の城壁になると 主は言われる。」

これはどういうことでしょうか。

このあたりにゼカリヤが霊的な面を重んじる一端が表われています。

石で築き上げられていた以前のエルサレムの城壁はバビロン軍の手によって破壊されてしまいました。にもかかわらず、前と同じような大きさで同じような石の材料で壁を築くのであれば、それは愚かなことではないでしょうか。なぜなら、それは敵の攻撃を受けるならば同じように再び破壊されてしまうに違いないからです。

ここには神の民イスラエルにとって、また、その都エルサレムにとって、自分たちを守るとはどういうことなのかという基本的な問いが含まれています。そして、神が自ら「火の城壁」となると言われていることの中に、神御自身によって守っていただかなければ神の民は神の民として存続することはできないのだということが示唆されているのです。

石の壁による防御ではなく神へのあつい信頼によってこそ神の民は守られるのです。それは信仰の壁です。そのことに民全体が気づくことが幻を通して示され促されているのです。

そこで私たちはゼカリヤを通して示された二つのことをさらに掘り下げて、神の民として生きるということについて考えてみたいと思います。

10節から11節にはまだバビロンに残っているイスラエルの人々に「帰ってくるように」との呼びかけがなされています。「急いで、北の国から逃れよと 主は言われる。天の四方の風のように かつて、わたしはお前たちを吹き散らしたと主は言われる。シオンよ、逃げ去れ バビロンの娘となって住み着いた者よ。」

また、15節には「その日、多くの国々は主に帰依して わたしの民となり わたしはあなたのただ中に住まう」と言われています。

神の都エルサレムにはイスラエルの民だけではなくて諸国の民も集められるというのです。それゆえ、神の都は「城壁のない開かれた所となる」のです。

このことはクリスマスの次のメッセージの中に象徴的に現されています。

ルカによる福音書の2章の10節には「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」とあり、神の御子の誕生は全ての民のものであると告げられています。

また、テトスへの手紙の2章の11節には「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」と宣言されています。

「民全体」とか「すべての人々」と言われていることには何の例外もありません。「そこには何らかの条件や制約や限界があるのではないか」と訝る必要は全くないのです。

私たちはまず、この「すべての人々」と言われていることの中に自分自身が含まれていることをしっかりと捉えなければなりません。「自分とは関係がない」とか「自分自身のことはともかく」と言ってはならないのです。

新しい神の都は、そして新しい神の民は城壁のない開かれたところとなってこの私を迎え入れてくれます。神は私のために御自身の都の門を開いてくださいました。主イエスはそのことを知らせるために私が生きているこの世界に来てくださったのです。そうであるならば、つまり、この私でさえ神の都に招かれているのであれば、私以外のあの人もこの人も、私が心にいつも覚えている一人一人も、同じように神が救おうとしておられる「すべての人々」の中の一人であると確信してよいのです。

この神の御心は今日教会において受け継がれ、また、実践されていかなければなりません。教会は城壁のない開かれた所として全ての人にその門戸を開いているところなのです。主イエスにおいて表された「すべての人を救う」というこの神の意志に教会は仕えなければなりません。

もう一つ、神御自身が「火の城壁」となってくださるということについても私たち自身との関わりをも含めて考えてみましょう。

「火の城壁」というのは比喩的な表現です。この「火」は焼き尽くす力を持っています。

私たちを襲う様々な悪の力、罪の力、誘惑の力を、神は火の力をもってそれらを焼き尽くし、私たちにその害が及ばないようにしてくださるというのです。それは自動的にそのことが起こるということが告げられているというよりも「神への絶対的な信頼に立って生きよ」との呼びかけであると受け止めるべきでしょう。

エルサレムの住民が敵から真に自分たちを守ることのできる手段は固い城壁とか凄まじい武器とか勇敢な軍隊などによるのではありません。それらに頼っているならば、自分たちの防御力を遥かにまさる力を持った敵が攻めてきた時には、ひとたまりもなく破壊されてしまうでしょう。神の民にとっての最大の武器は神へのあつい信頼です。

この信頼に生きる者を、神はその御腕をもって守り、御自分の瞳を守るように守ってくださる、敵がそれに触ることを許されないと12節に語られています。

このように、物やこの世的な力や、ましてや自分の知恵による防御ではなくて、神が全てをなしてくださる、神があらゆる敵から、悪しき力から自分を守ってくださるとの信仰の力、信頼の力を自分のものとすることが私たちに求められています。

私たちが苦悩に満ちた不安な心を抱えている時、あるいは何かを恐れ何かに脅えている時は、この世の事柄に対してこの世のものをもって対抗しようとしている時なのではないでしょうか。そのために諦めや絶望が壁のように私たちを取り囲んでいるという状況を生じさせてしまっているのではないでしょうか。

それでは私たちは神が私たちを守ってくださるということの確かな証拠やしるしをどこに見い出すことができるのでしょうか。

そこで私たちはもう一つゼカリヤが聞いた神の言葉に注目してみましょう。

14節にこうあります。「娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来て あなたのただ中に住まう、と主は言われる。」

神が神の民と共に住んでくださると約束されています。

この約束は御子イエスのこの世への派遣、クリスマスにおいて現実のこととなりました。歴史的に一回的な出来事として起こった御子イエスのこの世への派遣、この世での誕生の出来事はその時限りの意味しか持たないのではなくて、そこで示された神の愛は永遠の意味と力を持つものとなりました。つまり、御子イエスのこの世での誕生は今も私たちと共に神がいてくださることのしるしとなったのです。

毎年、私たちがクリスマスを迎えるのは、永遠に変わらない、神の人間への愛と関心を思い起こし、それを新たに私たちの心に刻むためです。それによって私たちは生きる勇気と力を新たに与えられるのです。それゆえ、私たちも「声をあげて喜べ」と呼びかけられているのであり、また、「声をあげて喜べ」と他の人々に呼びかけることができるのです。

クリスマスの事実の上に立っている教会は人間の真の喜びの源としての働きを続けていかなければなりません。

 

人が罪と死の力にもてあそばれているのを放っておかれない神の愛、私たち人間を救わないではおられない燃えるような神の愛が、私たちの心の闇を光に変えてくださいます。この愛に触れるならば、この愛に心を動かされ、心が燃えたたせられるならば、私たちの心の闇は焼き尽くされて、まことの光に満たされるのです。