「わたしは主のはしためです」

                ルカによる福音書12638

                                  水田 雅敏 

 

クリスマス、おめでとうございます。皆さんに神の祝福がありますように。

今日の聖書の箇所に示されていること、それは、人間にとっては不可能と思えること、つまり、人間にとっての限界を打ち破る方として御自分を現しておられる神がここにおられるということです。人間にとって全く無力としか思えない事柄において、神は比類なき力を発揮されるお方であるということです。

それはマリアが子を産むことが起こり得ない状況の中で神から子を与えられたことにおいて表されています。マリアは未婚の娘であり、「わたしは男の人を知りませんのに」という状況の中で神の力によって子を宿すということが起こっているのです。マリアにおいて妊娠、あるいは出産ということが不可能であり、あり得ないと思える状況が、神によって打ち破られているのです。人の目から見ると、つまり、人の経験や知識に立って考えるならば、絶望的であり、実現不可能な事柄が、神によって打ち破られて現実のこととして生じているのです。その出来事の前で、人はただマリアと共に「どうして、そのようなことがありえましょうか」と驚き怪しむことしかできないことが、神によって引き起こされているのです。

それに対して天使はただこう告げるだけです。37節にこうあります。「神にできないことは何一つない。」

これは天使を通して語られる、神の自己宣言の言葉です。「わたしには何事においても不可能ということはない」と神は御自身が全能であることを宣言しておられるのです。

御子イエスの誕生の出来事の中で、このような宣言を神がなさっているということは、クリスマスの中心にこの神の全能に対する信仰への招きがあることを示しています。人が不可能と思えること、そして実際に不可能なことを、神は果たしてくださるのです。それは、例えば、罪の赦しであり、人に神の子としての身分を与えることであり、また死を克服しての新しい命の創造などです。それらはすべて、「神にできないことは何一つない」と言われる神の業です。それはクリスマスから目に見える形で始まったのです。

自分の胎内に男の子が宿ることを知らされたマリアはそれにどのように応答したでしょうか。マリアの最初の反応は大きな驚きと戸惑いでした。寝耳に水といいましょうか、青天の霹靂といいましょうか、そのような天使の告知の前で、「なぜ、結婚もしておらず、男の人も知らないこのわたしが子を産むことになるのか」と慌てふためくマリアでした。それは人間として当然の反応です。

しかし、マリアは、それにもかかわらず、神の前から逃れるのではなくて、38節ですが、最後は「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言って、従順に、そして信頼を込めて、神のふところに飛び込む道を選び取っています。それは自分の考えや判断よりも、それ以前になされている神の決定や決断や計画に自分自身を託そうとする姿勢です。

それは何によって可能となったのでしょうか。何がマリアをその決断へと導いていったのでしょうか。それは天使が語る言葉、すなわち神の言葉に導かれ、支えられてのことでした。神の言葉はマリアに次のように語りかけられています。28節、「主があなたと共におられる」。30節、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」。35節、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。37節、「神にできないことは何一つない」。

マリアの恐れや不安を解消するかのように次々に語られる神の言葉に促され導かれて、彼女は神の計画の世界の中へと足を踏み入れていくのです。神の言葉が、神の計画、決断、それらをどのように実行していくかを明らかにします。その時、マリアの中に服従の決断が生み出され、絶対的な信頼のもとでの神への明け渡しが起こっているのです。これによってクリスマスの出来事は神の計画通りに進められていくことになります。

マリアを輝かせているものがあるとすれば、それは、彼女が生まれながらに人間として持っている様々な良い性格とか長所といったようなものではなく、彼女に神から与えられた信仰そのものです。彼女を御自分の計画を実行する器として用いようとなさる神が、マリアにお与えになった素直な信仰こそ、ほめたたえられるべきです。つまり、この出来事の中で賛美されるべきは人に賜物をお与えになる神御自身であるということです。

マリアと同じように、私たちの生活においても、「なぜほかの人にではなくこの私が」とか、「なぜこの時に」といった具合に、自分を襲う不条理に、神に向かって訴え、叫びたくなる事柄を経験します。不意に襲う悲しみの出来事や、到底癒えることはないと思えるほどの傷を無理矢理に負わされたとしか思えない状況が、私たちに生じることがあります。

そして、そのような中で響いてくる神の声は、「あなたの好きなように生きてよい」とか「どこにでも自由に行きなさい」というものではなく、「わたしに従ってきなさい」、「わたしのもとに留まりなさい」というものです。

私たちのその時の叫びは、「あなたがわたしに苦悩を担わせておられるのではないですか。それなのに、なぜあなたのもとに留まる必要があるのでしょうか」という激しい調子のものになってしまうことがあります。

けれども、「わたしを信じなさい」と命じられる神の言葉はその中に豊かな励ましと約束を含んだものです。「恐れることはない」と語りかけてくださり、「聖霊があなたを包む」、「主があなたと共におられる」と励ましを与えてくださり、「神にできないことは何一つない」と希望の光を照らしてくださるのです。

最終的には、この神に自分を委ねる道こそが人の歩むべき道であることを、マリアは私たちに証ししています。マリアは、神から逃れる道を選ぶのではなく、どんなに自分にとって大きな負担であり重荷であったとしても、「この道を生きよ」と神がお命じになるならば、その道を生きる、それが、彼女が主のはしためとして選び取った道でした。彼女は将来どのようになるのかという大きな不安を抱えながら神の力に引き上げられて、神の計画の中で生きる道を歩み始めるのです。クリスマスはそこから始まりました。

クリスマスの良き知らせを聞く私たちにも、その道が指し示されています。不条理としか思えない出来事の中で、理不尽としか考えられない状況の中で、なお神を信じつつ歩んでいく道、それがクリスマスを知った者の道です。

その時、私たちは、災いや重荷や悲劇としか思えなかった事柄から、私たちの思いを遥かに超えた神の恵みを知ることができるでしょう。そして、神を疑う言葉を発する口が神を信じ告白する口へと変えられ、神を呪う口が神を賛美する口へと変えられるでしょう。あの苦しみが、あの悲しみが、さらにあの死が、神の恵みの場となり、神の憐れみの出来事だったと心から告白することができる者とされるでしょう。神の言葉に対するマリアの信頼と従順、それに倣う私たちのひたむきな神への信頼を通して、私たちも救い主イエスをこの世に送られた、神の限りない恵みに与ることができます。

神がこの世にお遣わしになった救い主としての独り子の名はイエスでした。その名の意味することは、「主は救ってくださる。主は助けてくださる」です。主イエスを迎え入れることができた者においては、イエスはその名の通り働いてくださるのです。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」それは、「わたしの思いのままに事が進みますように」ではなく、「神よ、御心のままになさってください。御心が行われますように」ということです。この祈りがあるかどうか、この姿勢があるかどうかによって、その人の生きる質が決まります。

 

クリスマスの中心に立っているのは人間ではありません。そこには神御自身が立っておられます。私たちが主のはしためとして、また忠実な僕としてお仕えする祈りと姿勢を回復する時、それがクリスマスです。そして、その祈りと姿勢をもって他者に仕える道をクリスマスから新たに歩み始めるのです。