「聞き従って、魂に命を得よ」

                          イザヤ書55111

                                                                                                               水田 雅敏

 

私たちは今、主イエスの降誕を待つアドベントの時を歩んでいます。

考えてみると、私たちは日々の生活の中で何度も「待つ」ことを経験します。特に、嬉しいこと、喜ばしいことを待つ時は、待ち時間そのものを楽しむことができます。しかし、楽しいはずの待ち時間が苦痛となり、苛立ちや不安を覚えることもあります。それはいつまで待てばいいのか分からない時です。

人間は何にしても不確かなことが苦手ですが、待つことも同じです。いつまで待てばいいのか、どのくらい待てばいいのかが分からないと不安になります。待ち時間がはっきり分かっていれば、多少長くてもその時を過ごすことができます。しかし、それが分からないと、いくら待っても期待したことは起こらないのではないかという不安に襲われます。

聖書にも待つことを強いられた人々がいます。バビロンに囚われた人々もそうです。

神に選ばれた民として誇り高く生きていたイスラエルの人々でしたが、紀元前587年、南王国ユダは新興国バビロニアによって滅ぼされます。民の多くは捕らえられ、バビロニアの首都バビロンへと連れて行かれます。

このバビロン捕囚は紀元前538年にペルシアの王キュロスによって解放されるまで約半世紀に渡って続きました。イザヤ書はこのバビロン捕囚を背景として書かれたものです。

イザヤはバビロン捕囚の終りに近づいた頃に活動を始めた預言者です。

イザヤはバビロンに囚われている人々に対して解放の時が間近に迫っていることを告げ知らせ、祖国に帰ることを強く促します。しかし、イスラエルの人々はいつになったら解放されるのか分からない中で諦めにも似た思いを抱いていました。彼らの多くは自分たちが信じる神は故郷エルサレムにしかおらず、何千キロも離れたバビロンで祈りを献げても無駄だと感じていました。それよりも、今いるバビロンの地にある偶像を信じるほうが現実的だと考えていました。

そのような人々に対して、イザヤは危機感を抱き、与えられた神の言葉を告げて、故郷への帰還を促すのです。

1節にこうあります。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」

長く捕らわれの生活で、物質的にはもちろん、信仰的にも飢えと渇きを覚える人々に、神は自らを「水」に譬えて、御自分のところへ来ることをお求めになります。

水は生物が命を繋ぐためになくてはならないものです。食物も大切ですが、食物の元となる穀物も水なしでは育ちません。その水のもとに来ることを神はお命じになります。

この貴重な水への招きは富んでいる者たちだけに与えられているのではありません。唯一の資格は「渇き」と「飢え」です。渇き飢えている者なら貧富に関わらず誰でも神の差し出す水のもとへ来ることができるのです。

神が与えてくださるのは水と食べ物だけではありません。「ぶどう酒」と「乳」も与えてくださいます。

水や食料は命を繋ぐためになくてはならない物ですが、ぶどう酒や乳はどうでしょうか。これがないと即、死に直面するという物ではありません。単に命のためという観点から一歩進んだところをも神は見据えておられるのです。

異教の偶像に銀を払っても何も得るものはありません。人間の渇きや飢えを満たしてはくれません。しかし、神は単に命を繋ぐだけでなく、心も体も豊かに満たしてくれるものを値なしに与えてくださるのです。

さらに、神は御自身が語る言葉に耳を傾け、聞き従うことをお求めになります。

3節にこうあります。「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。」

御前に進み出て御言葉を聞くならば、神は永遠の契約を結ぶと宣言されます。

半世紀前、ダビデ王朝が滅んだ時に、イスラエルの人々は神が御自身の計画を破棄したと思ったことでしょう。しかし、そうではありません。神の計画は挫折したどころか、さらに大きな恵みへと向かいます。単にダビデ王朝の復活ということを超えて、神はイスラエルの共同体全てと契約し、さらにはイスラエルを超えて、未知の国とその民へと及びます。神に招かれた全ての人々の中心として、イスラエルは大きな役割を与えられるのです。

しかし、それほどの大きな恵みを約束されても、イスラエルの人々は神の言葉を信じることにためらいを覚えます。なぜなら、自分たちを解放するのがイスラエル自身ではなくペルシアの王キュロスだからです。「神はどうして異国の王を用いて自分たちを解放するのか。そのような神など信じることはできない。だから、祖国への帰還を命じるその呼びかけに応じることもできない。」

このイスラエルの人々の思いは当然とも言えます。「解放されることは喜びだが、それがなぜ同胞によってではなく異国の王によってもたらされるのか。一歩間違えば敵となり得る人物に自由を与えられても、それはいずれ自分たちの首を絞めることになるのではないか。」

そこでイザヤは、神の思いと道は人間の思いと道を遥かに超えていることを思い起こさせます。

8節にこうあります。「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。」

「敵は敵であり、味方にはなり得ない」というのが人間の考えです。しかし、神の考えはそうではありません。「敵もまた味方となり得る。」すなわちキュロスもまた神によって選ばれた者なのです。神は異国の王を捕囚の民の解放と祖国への帰還を実現するために自らの道具としてお用いになるのです。「神は語られた言葉を必ず実現なさる方である。人間の目には無理だと思う事柄でも、神にとっては、御自身が語られた以上、実現されないことはない。だから、神の約束を信じなさい。神の言葉を信じて行動を起こしなさい」とイザヤは語るのです。

これはイスラエルの人々に語られた言葉であると共に私たちにも語られている言葉です。

2節と3節に「魂」と訳されている言葉があります。これはヘブライ語で「ネフェシュ」です。「ネフェシュ」のもともとの意味は「喉」や「首」で、そこから「息」を意味し、さらには「命」を表す言葉となりました。

命を保つために大切なのは飲むこと、食べることです。けれども、自分で飲み食いしなければ、水も食べ物も体の中に取り込まれません。しかし、それさえすれば、あとは体がそれを吸収し、必要を満たしてくれます。

御自身を水に譬えられた神も同様です。私たちはただ神の言葉を信じて受け入れればいいのです。そうすれば、私たちの魂は命を得、恵みのうちに歩むことができます。

しかし、私たちにはそれがなかなかできません。なぜなら、神の思いを人間の思いで推し量ってしまうからです。自分の思いと大きな隔たりがある神の思いを私たちは受け入れることができないのです。

私自身も「すべては御心のままに」と思っていながら、「どうしてこんな思いをさせるのですか」としばしば神に不満を言う者です。

以前、ある牧師と話をしていた時のことです。私が「神は何でこんなことをなさるのだろう」と言うと、その牧師はこう言われました。「あなたは神が自分に都合のいいことを言ってくれないと困るのですか。」

そうなのです。私は自分に都合のいいことだけを神の思いとして受け入れていたのです。神の計画は私たち人間には計り知れないということを知っていながら、それでもなお自分の思いと一致する言葉だけを神の思いだと思い込んでいたのです。

しかし、そうでないことは明らかです。私にとっては「なぜ。どうして」と思うことも、それは神の計画の一部であり、神の思いそのものです。神の思いが私の思いと一致しなくても何の不思議もないのです。

自分にとって都合のいいことは受け入れやすいのですが、神はいつも私たちが受け入れられる甘い言葉だけを語ってくださるわけではありません。苦い言葉もお語りになります。しかし、それはただ苦いだけではありません。今は苦くて受け入れ難い言葉であっても、それもまた私たちを恵みへと導く神の言葉なのです。

私たちは今、主イエスの降誕を待ち望むアドベントの時を過ごしています。

神は私たち人間の罪をお赦しになり、永遠の命へと招くために御子イエスをこの世へと遣わしてくださいました。私たちは神によって与えられるその時を待っています。

神が与えてくださった御子イエスは、今もキリストとして神の計画を成し遂げるための働きをしておられます。それは私たちの目には見えない、また、思いも及ばない形で進められていきます。しかし、キリストによって実現される神の言葉こそが私たちの生きる希望です。私たちはそのキリストが来られる日を信じて待ち続けるのです。

神もまた、私たちが悔い改めて御自分のもとへと帰って来るその日を信じて、待っておられます。なぜなら、どれほど罪深くても、どれほど神に背くような者であっても、神は私たちを愛してくださっているからです。

神を信じ切れない者にも神は恵みを注いでくださいます。そして、悔い改めて、御自分のもとに帰ってくる日を辛抱強く待っていてくださいます。

 

その神にお応えして、このアドベントの時、やがてキリストが来られる日を思い巡らしつつ、共に降誕の日を待ちたいと思います。