「主のもとへ帰る」

                       ヤコブの手紙51920

                                                水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヤコブの手紙の519節から20節です。

今日でヤコブの手紙は最終回となります。

19節の前半にこうあります。「わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて」。

「真理から迷い出る」とあります。これはどういうことでしょうか。「真理から迷い出る」というのは一言で言えば、イエス・キリストから遠ざかっていくことを意味します。イエス・キリストを自分の救い主として信じることができなくなって、主のもとから離れてしまっている状態の人、それが「真理から迷い出た者」です。

教会の中の誰かがそういう状況に陥った場合のことを想定して、ヤコブはこれを語っています。それは誰もがそのような状態に陥る可能性や危険性を持っていることを意味しています。誰もがそのような弱さを抱えている者であり、また誰にでもイエス・キリストから迷い出させる誘惑の力が襲ってくることがあるのです。そういう状態が生じることの痛みを、ヤコブは知っていたに違いありません。

私たちもまたその痛みを経験し続けている者です。教会は常に群れ全体が、あるいは群れの中の誰かがイエス・キリストから迷い出る弱さを抱えています。そのとき、私たちはどうすればよいのでしょうか。

19節の後半にこうあります。「だれかがその人を真理へ連れ戻すならば」。

イエス・キリストから迷い出る者が出てくるのが教会の現実だと開き直るのではなくて、だれかがその人をキリストへ連れ戻すための行動を起こす、それもまた教会の現実でなければならないということです。

「連れ戻す」というのは迷い出た者をイエス・キリストのもとに再び連れて来るということです。その人が迷い出る原因となったものを取り除くために共に重荷を負い合い、戦う、そういうこともしなければなりません。イエス・キリストが「帰って来なさい」と呼びかけておられることを確信して、その人と交わりを持ち続け、御言葉を運び続け、その人を迷いからキリストのもとへ復帰させるために祈り続ける関わりが求められています。そうすることが神の御心であることを信じて、さ迷う魂の回復のために仕えなければなりません。

ヤコブは「だれかが」と言っています。迷い出た者を連れ戻す働きをするのは特定の務めを持った人だけでなくて、「だれかが」それをすべきだ、だれもがそれをすべきだ、だれもがそれをすることができる、いや、「あなたが」それをすべきだと、ヤコブは一人一人に訴えているのです。

しかし、迷い出たあの人に対してはどうしても自分は関わることはできない、自分でないほうがいいという場合もあります。そのときは、ほかのだれかがその迷い出た人に働きかけるように願う、そして自分は祈ることに徹する、あるいはそれ以外のほかの迷い出た人に働きかけかけるという道があります。そのとき、神が私たちのつたない言葉や働きや祈りを用いて一人の人の回復のためにそれを役立ててくださるでしょう。

そのようにして、迷い出た人とその人を連れ戻した人とが再び共にイエス・キリストを仰ぎ見ることができるようになるならば、それは何と喜ばしいことでしょうか。

私たちの教会においてもそのような働きが実際に為されています。イエス・キリストを見失った人がいる、これが現実であると同時に、その人をどうにかしてキリストのもとに連れ戻すことに心を用い、時間を用いている人がいます。見えない形でそれが為されているに違いありません。

そのようにして迷い出た者を主のもとに連れ戻すことのできる時の喜びと祝福を、ヤコブは二つの点から語っています。

第一は20節の前半に語られています。「罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し」。

罪人を迷いの道から連れ戻す人はその罪人の魂を死から救い出すことになるといいます。罪人を教会に連れ戻すことはその人を永遠の滅びから救い出すことになるというのです。

迷い出たままであったなら望みなく生涯を閉じなければならなかったかもしれない一人の人がイエス・キリストのもとに立ち帰ることによって永遠の死から救い出されます。新しい命の約束のままに平安の内に生涯を全うすることができる者とされます。それが罪人の魂を死から救い出すことの内容です。

その人のために働いた人がその救いを造り出すのではありません。神がそれを与えてくださるのです。私たちの小さな働きが用いられて一人の罪人がイエス・キリストのもとに帰ることができるならば、神はその人に永遠の命を約束してくださる、永遠の滅びからその人を救い出してくださる、それが神の御心です。そして、その御心に仕えることが私たちの務めなのです。

迷い出た者を主のもとに連れ戻すことのできるときの喜びと祝福の第二は20節の後半に語られています。「多くの罪を覆うことになると、知るべきです。」

迷い出た者がイエス・キリストのもとに帰って来たならば多くの罪が覆われるとヤコブはいいます。

「罪を覆う」というのは神がもはやその人の罪を見ないということです。神から罪があると見なされないということです。イエス・キリストがその人を御自分の体で包んでくださるゆえに、神はその人の罪を見るよりも、その人を包んでいるキリストを見てくださいます。キリストの愛がその人を包んでいる、その愛を、神は見てくださいます。キリストの正しさがその人を包んでいる、その正しさを、神は見てくださいます。あたかもその人自身が正しい者であるかのように見てくださる。それが神の目に罪が覆われるということです。

それは神のいい加減さによるものではありません。見て見ぬふりをする曖昧さから生じるものでもありません。それは神の愛から出てくる神の赦しの御業です。

「多くの罪」とあります。「多くの罪」と言われていることの内容は何であるのか、これについていろいろな解釈があります。

一つは、迷いから連れ戻された人の過去と現在の罪、そして、そのまま放っておかれたらさらに犯すかもしれない罪のことだという解釈があります。そういう理解も可能です。

あるいは、迷い出た人をイエス・キリストのもとに連れ戻した人自身に罪があるならば、その罪もまた神が赦してくださるというように考えますと、これは連れ戻す働きをした人の抱えている罪ということになります。そのように考えることもできます。

さらには、迷い出た人が属していた教会がその人の影響によって犯すかもしれない罪のことだとも考えられます。その人が帰って来ることによって教会全体が罪を犯す危険から守られるということが考えられているとも受けとめられます。

「多くの罪が覆われる」ということは、多くの罪がそこで赦されるのです。イエス・キリストのもとから迷い出た人が立ち帰って来たその出来事を通してその人自身の罪が赦され、それに関わった人も赦され、さらに、その人がそのままであれば教会全体が大きな影響を受けて犯すかもしれないこれからの罪も回避される、そのようにして、命と救いがみなぎる交わりがそこに生み出されてくるのです。

その事実、その約束を明らかにしつつ、ヤコブは「わたしの兄弟たち、あなたがたはそれぞれ、迷い出た者が罪を覆われる者となるための奉仕者となりなさい。あなたがた一人一人は神の恵みの担い手となりなさい」と呼びかけているのです。

その訴えの言葉でこの手紙が閉じられます。私たちはこの言葉に促され、導かれて、立ち上がらなければなりません。イエス・キリストは私たちの罪を神の目から覆うために神御自身が送ってくださった救い主です。人間の理解や知恵を超えた神の愛の出来事がそこにあります。

 

この愛によって私たちの罪は神の目に覆われるものとなりました。この愛に私たち自身が応えると共に、この愛を伝え運ぶための新たな行動を始めるために、私たちは立ち上がらなければなりません。主が私たちのもとに来られたのですから、私たちはそれに応えて立ち上がらなければなりません。今から私たちの新しい歩みが始まるのです。